日本記録保持者の鈴木健吾(富士通)や東京五輪6位入賞の大迫傑(Nike)、日本歴代3位の山下一貴(三菱重工)が注目された、来年のパリ五輪代表を決めるマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)男子。この日の雨、風、寒さも味方につけた小山直…
日本記録保持者の鈴木健吾(富士通)や東京五輪6位入賞の大迫傑(Nike)、日本歴代3位の山下一貴(三菱重工)が注目された、来年のパリ五輪代表を決めるマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)男子。
この日の雨、風、寒さも味方につけた小山直城
土砂降りのレースは、鈴木が11.9kmで棄権し、山下も23km過ぎには完全に遅れるという波乱の展開になった。そんななか1位でゴールに飛び込んでパリ五輪内定を手にしたのは、レース前の注目度は決して高くなかった小山直城(Honda)だった。今年の東京マラソンで2時間08分12秒の日本人6位になってMGC出場権を獲得していた選手だ。
勝因は小山の"冷静さ"だった。
「今回の雨や風の気候は自分にとってけっこうプラスで勝因につながったと思うし、あまり注目されていなかったので仕掛けやすかったという点もよかったと思います」
こう話す小山は、所属するHondaの小川智監督から「40kmまでは動くな」と言われていたと振り返る。
29km過ぎから大迫が動き、前半から独走していた川内優輝(あいおいニッセイ同和損保)への追い上げが始まり、32km過ぎから前に出た堀尾謙介と赤崎暁(ともに九電工)との差が少し開いた時も、追いかける大迫にピタリとついて力を使わなかった小山。38km手前から7人になった集団で横に広がって牽制する形になると、小山は押し出されるように前に出た。
予定より早く前に出てしまっても小山は冷静だった。
「集団の動きを利用してあまり動かずにレースを進めようと思っていたのですが、残り5kmをきったあたりからはだんだん上り始めるので、そこで自分が仕掛けたらラスト3kmくらいから集団の動きが鈍くなってきて、そこで一気に行こうと走りました」
38.2km付近から少しペースを上げて堀尾や井上大仁(三菱重工)、作田直也(JR東日本)を脱落させると、39km過ぎからスパートをかけて追いすがる赤崎を突き放した。
小山は「ラスト3kmから仕掛けたというより、ちょっとずつペースを上げていったらうしろの選手が離れてくれたので、それは自分にとってラッキーだった」と話す。
小川監督も「彼は本当にクレバーな選手。40km手前から勝負になるので、絶対に動かないようにと指示を出していた。若干早めではあったがしっかり見極めができていました。そういったところは今年のニューイヤー駅伝の4区で1位に立って、チームの優勝を引き寄せた走りもつながっていると思います」と評価する。
小山は、このコースの勝負どころをしっかり把握してそれを証明する走りをし、2時間08分57秒でパリ五輪代表内定を決めるゴールテープを切った。
【地道に積み上げてきた結果】
埼玉県の松山高時代、小山の陸上選手としてのターニングポイントになったのは、3年の時に、初の全国大会として出場した2015年1月の全国都道府県対抗男子駅伝だった。1位の熊本県と同タイムの2位で憧れの設楽悠太からタスキを受けた。5kmの高校生区間の4区を14分13秒の区間1位で走り、埼玉県の初優勝に貢献した。
その後は東京農業大に入り、2年では箱根予選会の20kmで個人31位に入り、チームトップで学連選抜として箱根駅伝に出場し、4区で区間10位相当の走りをした。2019年、Hondaに入社すると、1年目から2年連続で全国実業団駅伝の1区に起用され、ハーフマラソンでは1時間01分08秒の自己ベストを出すと、2年目には5000mで13分38秒81の自己新を出した。そして3年目の21年には1万mで27分55秒16の自己新と、一歩一歩土台を作っていた。
その成長を見守ってきた小川監督はこう振り返る。
「マラソンに臨むのは1万mで27分台を出してからと本人にも言っていたのですが、私的にはもう1年くらい力をつけてからと考えていました。でもちょうど(チームに)設楽悠太がいてタイミング的にもよかったし、本人のやる気もあったので後押ししたという感じです」
初マラソンは2022年3月の東京マラソンで、2時間08分59秒で22位。8月には北海道マラソンを走って2時間14分20秒で11位に入った。そして、今年は3月の東京マラソンを2時間08分12秒で走り15位に。そこでMGCの出場資格を取ると、「自分はまだマラソンの経験が少なかったので経験を積むということと、後半ハーフの落ち込みを少なくして走りきることを課題にした」と、7月のゴールドコーストマラソンに出場し、2時間07分40秒の自己新で優勝と着実にステップアップしてきた。
「ゴールドコーストマラソンの大会記録は悠太さんの2時間07分50秒だったので、それを破れたことはよかったです。順位としてはコースも意識せず、一緒に走ったケニア人選手などのこともよくわからなかったので、そこは運がよかったと思います」
こう控え目な発言をするが、ここで優勝する経験をできたことで、MGCのパリ五輪への条件である2位以内というのが少し気楽に感じることができ、勝ちきる走りにつながった。
「パリ五輪に出たいと思ったのがマラソンを始まるキッカケで、五輪は自分にとって通過点だと思っています」
ただ、パリ五輪を考えれば、戦う相手は今回より格段に力があり、厳しい面もある。日本陸連の瀬古利彦マラソン強化戦略プロジェクトリーダーは、「まだ伸びシロはあると思うし、これから日本記録を出す可能性を持っていると思う。ただ、今の記録では世界とは戦えない。五輪までにもっといい記録を出すことに挑戦してもらいたい」とエールを送った。
小山自身も「来年は元旦のニューイヤー駅伝のあと、東京か大阪のどちらかのレースを走ってパリ五輪につなげていきたい」と意欲を持つが、ノーマークで挑戦できていた時とは違い、これからは常に注目され続ける存在になる。その重圧をどうはねのけていくのかも重要な課題になる。
小川監督は「彼は自分でいろいろ考えることが好きなので、私もいろいろな情報を彼にトスして、ゆっくり考える時間を与えたいなと思う」と信頼する。クレバーな彼がこれから、どのように時間を有効に使い、自分の心に余裕を持たせながら過ごしていくのか。それも初出場の五輪へ向けて大事な課題になってくる。