ケンドーコバヤシ令和に語り継ぎたいプロレス名勝負(10) 中編(前編:「ハンセンがハンセンじゃなかった試合」全日本のリングで見せた珍しいファイト>>) ケンドーコバヤシさんが「スタン・ハンセンがハンセンじゃなかった試合」と話す、1998年8…

ケンドーコバヤシ

令和に語り継ぎたいプロレス名勝負(10) 中編

(前編:「ハンセンがハンセンじゃなかった試合」全日本のリングで見せた珍しいファイト>>)

 ケンドーコバヤシさんが「スタン・ハンセンがハンセンじゃなかった試合」と話す、1998年8月23日に後楽園ホールで行なわれた全日本プロレスの6人タッグマッチ(スタン・ハンセン、ボビー・ダンカン・ジュニア、ジョニー・スミスvsゲーリー・オブライト、高山善廣、垣原賢人)。前編では、ダンカン・ジュニアを支えるハンセンらしからぬファイトについて語ったが、中編では献身的だった理由を考察した。



新日本プロレス時代の(左から)スタン・ハンセン、ハルク・ホーガン、ボビー・ダンカン

【ハンセンも人の子やったんや】

――破格のパワーで暴れまくるハンセンが、本来の暴走ファイトではなくダンカン・ジュニアのフォローに徹したこの6人タッグマッチ。試合後、ハンセンが献身的だった理由について「重大な事実に気づいた」とのことですが、それは何ですか?

「それはあくまでも、俺が個人的に調べた上での仮説です。

 ハンセンはグリーンボーイ時代、ダンカン・ジュニアの父親であるボビー・ダンカンに教えを請うて全米をサーキットしていたらしいんです。その中でダンカンは、デビューしたばかりのハンセンにバックステージや控室の作法などを教え、各地のプロモーターにも『こいつは、いいレスラーなんだよ』と紹介していたんじゃないかと。だからこの6人タッグでは、"恩人の息子"であるダンカン・ジュニアを徹底してフォローに回ったんじゃないかと思ってます。

 ハンセンがハンセンであることを捨てるほどの献身的な姿に、俺は『父親のボビー・ダンカンは相当な人物だったんやろうな』と思いました。試合を見ている時は『どこが"ブレーキの壊れたダンプカー"やねん』と思ってましたけど、ハンセンにとって絶対に忘れられない恩だった。義理人情は日本人の美徳ですけど、アメリカにもあるんです」

――それは深い話ですね。ボビー・ダンカンはハンセンの5歳上で、同じウエスト・テキサス州立大学の先輩でもあった。WWWF(現WWE)では当時、王者だったブルーノ・サンマルチノの宿敵として活躍するほどのトップレスラーでした。

「そうなんです。大学の先輩ということもあり、グリーンボーイ時代のハンセンの面倒を本当によく見ていたんだろうと思います。6人タッグの前までの俺の知識として、ハンセンが(ドリー、テリーの)ファンク一家に恩があったことは知っていました。そこでプロレスの基礎を学び、デビューして独り立ちしたわけですが、その下積み時代にお世話になったのがダンカンだった。だからこそ、その息子であるダンカン・ジュニアのために『何かしないといけない』と奮い立ったんじゃないかと」

――なるほど。

「大歓声を集めるジョニー・スミスに負けまいと、リング上で動き回るダンカン・ジュニア。相手に捕まると、ハンセンが必死にフォローする。いつもなら、例えタッグパートナーが捕まっても無視して、自分だけが大暴れするはず。だけど、この時はそうじゃなかった。

 俺は理由を探った時に『ハンセンも人の子やったんや』と思いました。その背景に、『恩人の息子に恥をかかせるわけにはいけない』という義理人情を感じたからです。それにしても、ハンセンをあそこまで献身的にさせるんですから、ボビー・ダンカンは相当に面倒を見ていたんでしょうね」

【ケンコバ自身も思い出す下積み時代】

――ちなみにケンコバさん自身、同じように芸人の下積み時代の恩義を忘れない先輩はいらっしゃいますか?

「そりゃあいますよ。『この人たちには足を向けて寝られない』っていう人が。それは、リットン調査団というコンビの2人です。

 俺は"クズ芸人時代"、舞台で好き勝手なことやってお客さんから"帰れコール"をされていたことがあるんです。今、考ええるとアホやなと思うんですけど、当時の俺は"帰れコール"を浴びることを楽しんでいたというか、喜んでいた。『帰れ!』って罵詈雑言を浴びても、『あぁ気持ちいい』と悦に浸っていたんです。今思えば、何のプラスにもなってないんですけどね」

――ケンコバさんにも、そんな時代があったんですね。

「当時は心斎橋二丁目劇場というところに出演していたんですが、その劇場をとっくに卒業したリットン調査団の水野透さんが、突然、楽屋の扉をあけて俺のところにツカツカと近寄ってきて。『オイお前、バカやっているらしいな。俺のライブに出ろ。俺は今、バカをかき集めているんだよ』と言ってくれたんですよ。

 あれは俺にとって救いでした。そこからリットン調査団さんのライブに出させていただくようになって、『このままじゃいかんな』と気づかせてくれたんです。水野さんはお笑いに関しては理論派で、必ずライブの打ち上げでは、『あれは今日だから受けたっていうことを忘れんなよ』といったアドバイスもいただいてました」

――ケンコバさんにとっての水野さんは、ハンセンにとってのボビー・ダンカンですね。

「もし水野さんにお子さんができて、いつかお笑いデビューしたら、めちゃくちゃ甘やかすでしょうね。きっとハンセンも、グリーンボーイ時代にダンカンから言われていたはずです。『お前、バカやっているらしいな。俺のサーキットついてこい』って(笑)」

――そうかもしれませんね(笑)。

「そういえば、この6人タッグでは他にもハンセンの印象的なシーンがありました。この試合は、ダンカン・ジュニアが高山さんにピンフォールを奪われた。それまでハンセンは、パートナーが負けたら置き去りにして、花道の奥で『ユース!』を決めていたんです。だけど、この時はダンカンを抱きしめながら帰ったんですよ。そんな姿にも『ハンセンじゃないハンセン』を感じましたね」

――最後まで、献身的な姿勢を貫いたんですね。

「そうですね。あと、どこにも公開していない話なんですけど、俺とハンセンにまつわる秘話があるんです」

(後編:ハンセンとの秘話「日本プロレス界最大の事件」の後に届いた手紙>>)

【プロフィール】

ケンドーコバヤシ

お笑い芸人。1972年7月4日生まれ、大阪府大阪市出身。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。1992年に大阪NSCに入学。『にけつッ‼』(読売テレビ)、『アメトーーク!』(テレビ朝日)など、多数のテレビ番組に出演。大のプロレス好きとしても知られ、芸名の由来はプロレスラーのケンドー・ナガサキ。