7月1日、上田利治氏(以下、敬称略)が亡くなった。 私ごとで恐縮だが、小学校に入学した年に阪急ブレーブス(現・オリックスバファローズ)が初めて日本一に輝いた。その後、阪急黄金期とともにプロ野球にのめり込んでいった私にとって、上田は強さ…

 7月1日、上田利治氏(以下、敬称略)が亡くなった。

 私ごとで恐縮だが、小学校に入学した年に阪急ブレーブス(現・オリックスバファローズ)が初めて日本一に輝いた。その後、阪急黄金期とともにプロ野球にのめり込んでいった私にとって、上田は強さの象徴的存在だった。

 そんな上田にじっくり話を聞いたのは、2011年12月。都内の広々とした喫茶店で3時間近く及んだ会話のほとんどは、その2週間前に亡くなった西本幸雄についてだった。



歴代7位となる監督通算1322勝を挙げた上田利治氏

 上田がコーチとして2年間仕え、のちに2人は阪急と近鉄の監督として戦った。西本の誘いにより上田と阪急の接点が生まれたのは、上田が34歳、西本が51歳のときだった。

 あらためて西本の指導について尋ねると、「やっぱり情熱。とにかく野球を愛し、選手を愛していました」と切り出し、こう続けた。

「練習はもちろん厳しいけど、辛抱強く、その選手と一緒になって頑張る。『お前はここまでできるんだから、もう一歩、頑張ってみ』と。要求は高くても、オレのためにここまで……とわかれば選手は頑張る。その空気さえできれば、あとは少々のことがあっても選手はついてくる。西本さんはそういう指導者でした」

 西本についてどんな姿が心に残っているかと尋ねると、「バックネットの前で指導していた姿」と答えた。

「ABCのランクがあるなら、Cランクの選手。つまり、ゲームにはほとんど出ない選手にトスを上げていました。それも毎日選手を替えて、平等に。気持ちを切らさんように、『お前にも期待しとるんやぞ』ってね。自分も熱を持ちながら、相手にも熱を持たせる。厳しくも温かい指導でしたね」

 情熱と愛情──西本らしい話だと思ったが、選手に対する姿勢は上田にもしっかり重なるものだと思った。

 長いNPBの歴史のなかでも日本シリーズ3連覇は、巨人、西鉄、西武、そして阪急しか成し遂げていない。

 シーズンでは歴代7位の1323勝を重ねるなど、たしかに「勝つ監督」の印象は強い。ただ、指揮官としての上田の本質は、選手とともに泥だらけとなり、忙しく身ぶり手ぶりを交えながら声を飛ばす。

 後年、福本豊や加藤秀司に話を聞いたときも、指揮官としての上田よりも、打撃練習、走塁練習に根気よくつき合ってくれたコーチ時代の思い出を挙げた。伸びゆく才能が何より好きな人。そんな印象が強くある。

 叔父は徳島県弁護士会の副会長。上田自身も関西大学法学部出身で弁護士を目指していた時期があったが、広島からの強い誘いに応じプロ入りを決意する。プロ1年目の日南キャンプに六法全書を持ち込むなど、勤勉なプロ野球選手として注目を集めた。

 しかしプロ入り後の成績は振るわず、現役生活はわずか3年のみ。それでも明晰な頭脳、野球への情熱が当時、球団社長だった松田常次の目に留まり、史上最年少となる24歳で専属コーチとなった。そこから8年、広島のコーチとしてチームを支え、最後の2年は根本陸夫監督のもとで知恵袋として力を発揮した。

 退団後は評論家となり、メジャーリーグを視察するなど精力的に動いた。1970年の秋、ワールドシリーズ観戦でアメリカ滞在中、日本から1本の電話を受けた。

「来年、近鉄へ行くことになるから用意しといてくれ」

 声の主は、2年前まで南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)で23年間指揮を執っていた鶴岡一人だった。近鉄の監督就任の話が水面下で進んでおり、組閣を固めるなかで広島時代の指導ぶりを耳にしていた鶴岡が、上田に声をかけてきたのだ。この誘いを二つ返事で了承すると、予定を少し早め帰国。あとは発表を待つばかりだった。

 ところが……最終確認の連絡が入る予定だった日、突然、話が立ち消えになった。表向きは鶴岡の健康上の理由ということだったが、真実はわからない。もしそのまま近鉄のユニフォームを着ていたら、その後の上田の野球人生も、プロ野球の歴史も、まったく違ったものになっていただろう。

 そんな失意の上田に声をかけてきたのが、阪急だった。当時の阪急は、西本監督8年目を終え、チームは4位に終わり、外部から新しい血を求めていた。西本は当初、山内一弘の招聘を考えていたが、一瞬早く巨人監督の川上哲治が声をかけ、巨人のコーチ就任が決まっていた。そこで上田に声がかかったというわけだ。上田は当時を振り返り、こんなことを口にしていた。

「人の人生、真っすぐに行くことはない。こっちの道も、あっちの道もある。そういうなかで僕にとっては、西本さんに見込まれて阪急のユニフォームを着たというのが、正道やったんでしょう」

 1971年、打撃コーチとして阪急に入ると、その年からチームはリーグ2連覇を達成。ただ、日本シリーズではことごとく巨人に敗れた。この71年も、阪急はシーズンで41の貯金をつくるなど圧倒的な強さで勝ち上がった。大方の予想は”阪急有利”と見られていたが、山田久志が王貞治に逆転サヨナラ3ランを喫するなど、1勝4敗で完敗。

 その翌年もリーグ制覇を果たしたが、日本シリーズでまたしても巨人に敗れた。さらに、前後期制となった1973年はプレーオフで南海に敗れ、この直後、西本が監督を辞し、上田監督誕生となった。

 実はこのときも、いくつかの「もし……」が絡んでいた。当時の球団代表から上田は、「西本くんが辞めることになった。球団も、西本くんもキミを推薦しているから監督を受けてくれないか」と依頼を受けた。しかし上田は、まだ力不足を感じており、一旦断りを入れた。するとその日の夜、西本が上田の自宅に来て「自分も球団に残ってアドバイスする。だから思う存分やってくれ」と説得。そして翌日、上田は監督要請を正式に受諾した。

 ところが、36歳の青年監督誕生という話題は、あっという間に霞(かす)んでしまう。数日後、西本が近鉄の監督に就任したからだ。上田は「まさか」と西本に連絡をとり「話が違うじゃないですか!」と迫ったが、西本は「申し訳ない。ただ、オレぐらいの歳になったらこの気持ちもわかってくれるだろう」と返すのみだった。

「西本さんが球団を離れるとわかっていたら、(監督は)引き受けていなかった」と上田は話したが、同時にこうも語った。

「あのとき西本さんはまだ53歳。気力も体力もあるときに、もうひとつ大きな仕事をせなあかんという使命感があったんでしょう。球団(フロント)に残って……という話はあったとしても、西本さんはそういうところでやれる人じゃない。まだまだ羽ばたきたかったんでしょう」

 それからは、ともに関西に拠点を置く鉄道会社のライバル球団の監督として戦った。

 それにしても、選手としての実績もなく、36歳で常勝チームを託された重圧は相当なものだっただろう。そのときの状況を上田はこう語っていた。

「割り切って勝つことだけを考えました。まあ、そう思うまでにちょっと時間はかかりましたけど……」

 監督1年目の1974年は、前期を制したもののプレーオフでロッテに敗れた。だが翌年、球団創設40年目にして初の日本一に輝くと、そこから日本シリーズ3連覇を達成するなど、黄金期を築いた。

 山口高志という剛腕の加入が、それまで届かなかった頂へと押し上げたのは間違いない。ただ、その一方で、山田久志、福本豊、加藤秀司を筆頭とした主力の大半は、西本が手塩にかけて育てた選手たちだった。上田の功績を称える一方で、「西本の遺産」という声はついて回った。このことを上田はどう感じていたのか。

「チームというのは、毎年育ってきとるからね。種を蒔いて育てる人もいれば、刈り取る人もいる。ただ、阪急の監督を引き受けたときは、『2代目はよく失敗する』と言うけど、それだけは許されんという気持ちがありました。引き継いだから強かったというより、引き継いだから負けたと言われんように……それだけでしたね」

 上田は自らを”刈り取る人”とたとえたが、監督になってからは12球団一と言われた練習で選手を鍛え上げ、試合では勝ちにこだわった。「V4確実」と思われていた1978年の日本シリーズでヤクルトに敗れ、第7戦では本塁打の判定を巡り1時間19分の猛抗議。この責任を取る形でユニフォームを脱いだ。

 その後、数球団から誘いを受けたが、1981年に阪急に復帰。黄金期を支えた主力の力が衰えるなか、1984年は松永浩美、藤田浩雅、弓岡敬二郎、山沖之彦ら、”上田色”の強い選手たちの活躍でリーグ優勝。広島に敗れ日本一はならなかったが、黄金期の勝利とはまた違った喜びを味わった。

 この頃から、若手を褒め、乗せていく姿に「ええで」というコメントがよく使われるようになった。ところが本人は意外な真実を口にした。

「関西弁で『ええで』といったら、『もうええで』。つまり『もういらない』という意味になる。そんな言葉を、選手を語るときに使わない。関西弁をよくわかっていない記者が書き始めて、それが広がったんです」

 その後、1988年の阪急の身売りを経て、オリックスの監督を2年間引き継ぎ、1995年からは日本ハムの監督として5年間指揮を執った。

 上田の経歴をあらためて見直すと、「もし……」と思うことがある。オリックスの監督を終えた上田は、1991年の1年間だけフロント業を務めた。実はその年のドラフトでオリックスが4位で指名したのがイチローだった。もし、あと少しオリックスの監督を続けていたらどうなっていたのだろうという想像だ。

 入団1年目からファームで首位打者に輝いた希代のヒットメーカーは、上田の目にどう映ったのか。おそらく、一軍での活躍はもっと早まっていたのではないだろうか。また、その後、スター選手となっていくイチローを、上田ならどう扱ったのかという興味もある。

 この取材のあと、別れ際に「今度は(私の)家でゆっくり話しましょう」と上田は言った。その言葉に甘え、翌年、連絡させてもらった。日程も決まり、イチローの話も含め、再会を楽しみにしていたところ、予定の2日前に「ちょっと体調がよくなくて……また、あらためて」という連絡が入った。その後はタイミングを逃し続け、結局、再会は果たせなかった。

 優れた理論を武器に徹底して勝ちにこだわり続け、また豊かな人材を数多く育て上げた。「知将」「闘将」「育将」――上田はすべてに当てはまる稀有な指揮官だった。

 頭のなかに、少年時代に通った西宮球場の戦いの風景が何度も蘇ってくる。上田とのしばしの別れである。合掌。