日本人として初めて米プロバスケットボール協会「NBA」のコートに立った田臥勇太(42)=宇都宮ブレックス=は、バスケットボールが世界に広まっていく時代の鼓動を国内外の第一線で感じてきた選手だ。 秋田・能代工業高を卒業後、米・ブリガムヤング…
日本人として初めて米プロバスケットボール協会「NBA」のコートに立った田臥勇太(42)=宇都宮ブレックス=は、バスケットボールが世界に広まっていく時代の鼓動を国内外の第一線で感じてきた選手だ。
秋田・能代工業高を卒業後、米・ブリガムヤング大ハワイ校に留学。アメリカで選手としてのキャリアを切りひらく先駆者の一人となった。国内で最も名前を知られているバスケット界の第一人者として、日本のバスケットを巡るここ30年の変化をどう感じてきたのか。振り返ってもらった。
――ドリームチームが盛り上がった1992年バルセロナオリンピックの時、田臥さんは小学生でした。
ちょうど、僕は小学校6年生でした。NBA選手がオリンピックに出るっていう衝撃もあったけど、さらにあれだけメンバーがそろっていた。NBAが大好きだった少年にとって、「もう絶対に見たい」という舞台でした。
だから今でもぼんやり覚えています。あれは衛星放送だったかな。何とかして、どうにかして、絶対に試合を見たいとテレビにかじりついていました。
あの時はスニーカーブームも同時に起こっていました。ファッションとバスケットがつながって、世の中が盛り上がる。そんなことを初めて経験した時間でした。漫画「スラムダンク」の連載もありました。バスケットが持つ影響力や可能性というものに、小学校の子供ながらワクワクしていたことは覚えていますね。
――当時好きだった選手は。
小6の時はなぜか(チャールズ・)バークレーが好きでした。熱くプレーするところが気に入っていた。あと、マジック(・ジョンソン)ですね。僕はマジックが好きでバスケットをスタートしたので。だから、マジックと(マイケル・)ジョーダンが一緒のチームでやる、しかも真剣勝負をやることに興奮しましたね。
――ドリームチームが与えた影響は大きかった。
それまでのオリンピックでは、日本が強い競技や日本人選手を応援していました。でも、あの時はそうじゃなかった。ドリームチームが全世界の人たちをとりこにしていた。その影響力って本当にすごかったんだろうなあって改めて思います。
――当時の思い出のグッズはありますか?
選手がそれぞれオリンピックバージョンのバッシュ(バスケットボールシューズ)を履いていましたよね。僕も本当に欲しくて。でも、そんな簡単に買えるものじゃなかった。あの時の憧れを持ったまま大人になってしまったから、今でもオリンピックバージョンのバッシュが出ていると、欲しくなっちゃいます。
――中学生の時はCMの撮影でニューヨークに行き、ニックスのパトリック・ユーイング選手に会いました。
NBAの試合が見られる、さらにユーイングに会えるって聞いて僕はCMに出ることを決めました。今なら(ステフィン・)カリーと会えるよって、言われるようなもの。バスケをやっている中学生なら絶対に行きますよね。
あの年齢でニューヨークに行けて、米国の空気を感じて、とんでもない経験をさせてもらった。アメリカへの憧れをさらに強くしてもらえたきっかけだったと思います。
――ユーイング選手は7フィート(213センチ)の巨体が武器でした。
僕の頭がユーイングの胸ぐらいでした。実家にはまだあの時の写真があると思いますけど、「でっかい」のレベルを超えていた。初めてでしたね、「こんな人がいるんだ」と衝撃を受けたのは。
――その後、能代工高で活躍し、田臥選手は日本バスケットを背負う逸材と周囲から見られるようになります。バスケットの変わり目の渦中にいて、さらにそういった周りの期待をどう感じていましたか。
スニーカーブームやスラムダンクの盛り上がりがあり、ジョーダンのシカゴ・ブルズがスリーピート(NBA3連覇)を達成して、世界中が注目していました。バスケットが変化する中に僕はいるんだなっていうのは、高校生ながら感じていましたね。
でも、自分がその時代を引っ張るとか、そんな意識はまるでなかった。そういう盛り上がりの中にいられたのは幸せだなと思います。
当時は今みたいにSNSがある時代じゃなかった。能代には情報が全然入ってこないし、僕はテレビをそんなに見ていなかった。大会に行くとたくさんの観客が見に来てくださって、メディアの方も取材してくれました。でも、能代に戻るとそこだけの閉じた世界があった。僕は普通の高校生でした。今思えば、それが僕にはよかったかもしれません。外への憧れがどんどん膨らんでいったので。