日本人2人目のNBA選手になった渡辺雄太(28)=フェニックス・サンズ=は、日本バスケットボール界の開拓者の一人だ。香川・尽誠学園高を卒業後、周囲の猛反対を振り切って渡米。全米大学体育協会(NCAA)1部のジョージ・ワシントン大で活躍し、…

 日本人2人目のNBA選手になった渡辺雄太(28)=フェニックス・サンズ=は、日本バスケットボール界の開拓者の一人だ。香川・尽誠学園高を卒業後、周囲の猛反対を振り切って渡米。全米大学体育協会(NCAA)1部のジョージ・ワシントン大で活躍し、世界最高峰の舞台への道を切り開いた。

 渡辺の後に八村塁(25)=ロサンゼルス・レーカーズ=もNCAA1部からNBAへ進み、多くの日本のバスケット少年が米国に挑戦するようになった。そんな光景は渡辺の目にどう映っているのか。帰国中の渡辺に聞いてみた。

 ――ご両親はともに実業団で活躍された選手でした。2人のプレーの思い出は残っていますか。当時と今では日本のバスケットボールの環境は大きく変化しているのではないでしょうか。

 僕が生まれた時には2人とも既に引退していました。両親のプレーは映像でちらっと見たことがあるぐらい。だから実業団の環境は知りません。でも、ミニバスや中学時代、コーチなどで2人が来ると、周りの人がすごく尊敬している雰囲気は感じていました。

 2人はバスケットオタクです。Bリーグを見て、僕のNBAの試合も見て、日本の大学や高校の試合もチェックしています。とにかくバスケットにちょっとでも関わっていたいんです。

 そんな2人が、昔に比べたら高校生も含めてみんな技術が上がっている、Bリーグはすごく面白い、といつも言っています。プレーの質だけでなく、会場のエンターテインメントやお客さんの盛り上がり方も含めて、昔とは全然違うっていうのはよく話していますね。

 ――米国に行って、日本との指導や育成の違いは感じましたか。

 今はだいぶ減ってきているかもしれないですけれど、日本には文化的に上下関係があるじゃないですか。特に部活動ではそれが厳しかったりする。

 僕の場合、尽誠学園高ではコートに入ったら1年生だろうが3年生だろうが学年に関係なくしっかりやりあえました。中学校の時も上下関係の難しさを感じたことはなかった。

 でも、1年生が3年生に対して激しい守備をしたら舌打ちをされたり、やめろって言われたり、という話を聞いたことがあります。

 上下関係そのものは日本のいい文化でもあると思うので、それを否定しているわけではないんです。

 だけど、コートの中では3年生だろうが1年生だろうが関係ないようにしなければいけない。(米国のように)競争力を高めるという部分に対してはやっぱり変えていかないといけないなと思います。

 ――逆に日本の指導のよさはどこに感じますか。

 僕は基礎的な部分をすごくたたき込まれました。小中もそうですが、高校に入ってから僕は身長がぐっと伸びた。多少サボってもやれてしまう状況があったんです。特にディフェンスの部分では抜かれても、簡単にブロックができてしまった。

 でも(相手に)抜かれるっていうことに対して、尽誠学園の色摩拓也先生はすごく厳しかった。相手が(俊敏な)ガードだろうが、(横方向に)スライドステップでついていくことを徹底されました。ディフェンスのフットワークのメニューはすごくありました。

 僕ともう1人、2メートル近い選手がいたのですが、僕らがちょっとでも手を抜くようなことがあれば、とにかくめちゃくちゃ厳しく指導してもらえた。

 今アメリカにいて、身長でも能力でも通用しない。だから、その基礎(の重要性)というのはやっぱりすごく感じています。

 ――渡辺選手は高校2年生時、ウィリアム・ジョーンズカップで日本代表デビューしました。

■アメリカでもまれた部分を代表に還元

 あの時の代表チームは3チームに分かれていた。僕はその2チーム目で、少し言い方はあれですけど、下の方の選手でした。

 それなのに、イランや韓国の正メンバーを相手に、勝てはしなかったんですけど、めちゃくちゃいい試合を続けることができました。僕としてはすごく楽しかった記憶があります。

 ――渡辺選手は今夏のワールドカップ(W杯)で勝てなかったら、「代表のユニホームを脱ぐつもり」と覚悟を示しましたが、当時から日本代表は特別なものだったのでしょうか。

 当時は高校生なので、こんな自分が代表に入れてもらえてうれしいぐらいの感覚だったと思います。最初に選ばれた時はどっちかと言えば浮足立ってたというか。まだまだ自分も無名でしたし、「自分なんかが選ばれていいのかな」とちょっと思っていました。

 やっぱり徐々に年齢を重ねていって、代表選手として試合に出させてもらえる機会が増えるにつれて、徐々に責任感は増していった感じがありました。

 ――当時代表で若手だった富樫勇樹選手と、今回は主力として戦います。どんな感覚ですか。

 僕らは、その何て言うか、ちゃんとうまくなるべくしてうまくなっていったんじゃないかな、というふうには思っています。

 もちろん先輩たちがしっかり築いてくれた文化をちゃんとリスペクトしつつ。(2人が)アメリカでもまれた部分をちゃんと代表に還元して、いい刺激をお互いに与えあって、ということをずっとやり続けてきていた。だから僕も勇樹も中心選手として残っているのは全然不思議ではない。そういう感じです。

 ――後輩や子どもたちに何かを残したいという思いは強まっていますか。

 前回の中国のW杯(2019年)は、まだ僕も年齢的に下の方でした。僕や(八村)塁、(馬場)雄大あたりが一番下の方だった。その時から米国の強度というか、そういう部分はしっかり伝えていきたいと思っていました。

 今は下の(世代の)選手、19歳とか20歳とかでいい選手がどんどん出てきている。その選手たちに早い段階で世界を知ってもらいたいというのはめちゃくちゃ僕は思っています。だから、そういう選手に対して練習中から僕は結構ガツガツやりに行きます。やっぱり、こういう練習をしないといけない、というのは自分が先頭に立って伝えていかなきゃいけない部分はあります。