イギリス・ロンドンで開催された「ウィンブルドン」(7月3~16日/グラスコート)。 戦いというより戴冠式のようなものだった男子シングルス決勝を、サービスエースで締めくくったあと、ロジャー・フェデラー(スイス)はコート脇の自分の椅子に座り、…

 イギリス・ロンドンで開催された「ウィンブルドン」(7月3~16日/グラスコート)。

 戦いというより戴冠式のようなものだった男子シングルス決勝を、サービスエースで締めくくったあと、ロジャー・フェデラー(スイス)はコート脇の自分の椅子に座り、涙を拭きとった。

 それが、その事実が彼の心を打った瞬間だったのだ。記録的8度目のウィンブルドン・タイトル獲得のための待ち時間は終わった。その瞬間までフェデラーは、1877年の第1回大会以来、ウィンブルドンの歴史の中で、ほかの誰よりも多くこのグラスコートの大会に勝つ、という観念に気持ちを集中させてはいなかった。彼が重視していたこと、気持ちを割いていたことは、ハイレベルで戦うに十分なだけいい体調でいることであり、彼は合計が何回になるかに関わらず、ただタイトルを獲りたいとだけ願っていた。

 一度もセットを落とさなかった素晴らしき2週間の仕上げに、フェデラーはわずか1時間41分のプレーの末、マリン・チリッチ(クロアチア)を6-3 6-1 6-4で圧倒することにより、8度目のウィンブルドン優勝杯と、19度目のグランドスラム・タイトルを獲得した。

「ウィンブルドンは常に僕のお気に入りの大会だった。そして今後もずっと、もっともお気に入りの大会であり続けるだろう。僕のヒーローたちは、ここの地を、ここのコートの上を歩いた。彼らがいたから、僕はよりよい選手になれたのだとも思う」とフェデラーは言った。来月に36歳となる彼は、1968年に始まったオープン化以降の時代における、最年長のウィンブルドン男子シングルス・チャンピオンとなったのである。

「それらすべてのことゆえに、ここウィンブルドンで歴史を刻むというのは、僕にとって本当に大きな意味があることだ」とフェデラーは言った。

 彼の最初のグランドスラム・タイトルは、2003年のウィンブルドンでもたらされた。そして2004、2005、2006、2007年にも、ほかのタイトルがそれに続いた。彼は2009年、2012年にもふたたび優勝したが、2014年と2015年には決勝でノバク・ジョコビッチ(セルビア)に敗れていた。

 一年前に準決勝で敗れたとき、彼はタイトルどころか、もう一度決勝に至れるかについてさえ確信を持てないでいた。それから彼は手術で修復した左膝を完全に治癒させるため、2016年の残り期間を休養にあてた。

「長い道のりだった」とフェデラーは言う。

 日曜日の結果が疑念の中にあったのは、最初の20分間だけだった。それはフェデラーが最初のブレークを果たし、リードを奪うのにかけた時間だ。

 チリッチは試合後、準決勝の際に、左足に強い痛みをともなうマメができてしまい、それが適切に動くことや、威圧的なサービスを生み出す能力に影響を与えてしまったのだ、と言った。そのパワフルなサービス力こそが、準決勝でフェデラーを下して周囲を驚かせた2014年全米オープンで、チリッチを彼の唯一のグランドスラム・タイトルへといざなったのである。

 しかしこの試合はフェデラーの独壇場だった。フェデラーはここまでウィンブルドンの、公式には今だ"ジェントルマン・シングルス"と呼ばれるものにおいて、優勝回数「7回」で、ピート・サンプラス(アメリカ)、ウィリアム・レンショー(イギリス/1880年代に活躍)とタイ記録だったのである。サンプラスは、ひとつを除くすべてを1990年代に獲得した。レンショーは、前年度優勝者が自動的に決勝進出となるフォーマットだった1880年代に、彼のタイトルのすべてを獲っている。

 雲が空を覆い、少し肌寒かったその日曜日、フェデラーの序盤のプレーはやや神経質になっているような兆候を示していた。彼が成し遂げたすべて、すでに慣れきった輝く脚光と、大舞台での比類なき成績ゆえ、『GOAT』----Greatest of All Time(史上もっとも偉大な選手)と評された男は、この日、足の重さと混乱した考えに苛まれていたと認めた。

 最初の2回の自分のサービスゲームでダブルフォールトをおかしたのは、チリッチではなく、フェデラーのほうだった。そして第4ゲームで最初のブレークポイントに直面するピンチを経験したのも、チリッチではなくフェデラーのほうだったのである。しかしチリッチはリターンをネットにひっかけ、それが、フェデラーが自分のサービスゲームで連取した17ポイントの皮切りとなる。彼はもう2度と、ほかのブレークポイントには遭遇しなかった。

「僕はベストを尽くした」とチリッチは言った。「それが僕にできるすべてだった」。

 次のゲームで、フェデラーはチリッチのサービスをブレークすることに成功し、3-2とリードを奪う。彼は5-3からふたたびブレークを果たして第1セットを取った。このセット最後のポイントでダブルフォールトをおかしたチリッチは、エンドチェンジのためコート脇の椅子に向かうと、ラケットを地面に叩きつけた。チリッチは椅子に座り、頭をタオルで覆った。

 第2セットでフェデラーが3-0とリードしたあと、チリッチは医師やトレーナーに足を診察してもらいながら泣いていた。本人によれば、それは足の痛みのせいというより、相手に戦いを挑み、難題を課すに十分なだけ、いいプレーができない、という考えからだったのだという。

「感情的に非常に辛かった」とチリッチは打ち明けた。第2セットが終わったあと、彼はトレーナーに足をテーピングし直してもらった。「コート上で自分のべストのレベルのプレーができないことはわかっていたんだ」。

 もっともそれは重大なことではなかったかもしれない。フェデラーは大会を通しずっとそうだったように、総じてみれば欠点がないプレーをしていたからだ。彼は1セットも落とさずにウィンブルドンに優勝した41年ぶりの選手となった。対チリッチ戦で、彼は23本のウィナーを決め、アンフォーストエラーは、わずか8本にとどまった。

 この勝利は、一年前に多くの疑問とともにウィンブルドンから去ったフェデラーにとって、目覚ましい再起だった。昨年、そのキャリアで初めて彼は自分の体に裏切られた。彼は健康な体を取り戻そうと、リオ五輪と全米オープン、そのほかの残り大会のすべてをスキップしたのである。

 そして、その試みは功を奏した。それも、大いに。

 休息のおかげでリフレッシュし、完全に体調を取り戻したフェデラーは、1月にツアーに戻り、かつての彼のようにプレーし始めた。

 時計の針を戻したように、フェデラーは全豪オープン決勝で、往年のライバル、ラファエル・ナダル(スペイン)と対戦し、第5セットで挽回した末に勝利をつかむ。それは、自身の持つ最多記録を更新する18回目のグランドスラム大会優勝であり、4年半ぶりのそれでもあった。フェデラーはもう終わったと書いていた者たちは、急いで消しゴムで消す必要があった。

 この方式は明らかに、賢明かつ道理に適っている。ならば、ふたたび試してみない理由がどこにある?

 フェデラーは、心から愛するグラスコート・シーズンに最高の調子に至ることを目指し、今年のクレーコート・シーズンを丸々スキップした。そして日曜日の勝利で、フェデラーの2017年の戦績は、ツアー最多の5タイトルをともなう31勝2敗となったのである。

「ある意味で、驚いているよ。でも他方では、彼には多くのことができるのだとわかっている。だからそう驚きではない」と、コーチのセベリン・ルティは言った。「しかし実際にそれが起きてみると、驚くべき素晴らしさだ」。

 そう、フェデラーは、ほかのどんな男もできなかったやり方でテニス界最高位に戻ってきたのだ。

 もちろん、彼はもはや、2003年ウィンブルドン決勝でマーク・フィリポーシス(オーストラリア)を倒したときと同じ、髪を後ろで結わえた21歳の無法者ではない。あるいはその2年前に、同じセンターコートでの4回戦----ツアーレベルでの初対戦だったその試合で、サンプラスを破ったティーンエイジャーでもない。

 いまやフェデラーの髪は刈られ、顔はすっきりと剃られている。彼は二組の双子という四児の父であり、淡いブルーのブレザーを着た3歳の息子たちと、ドレスを着た7歳の娘たちは、日曜日の表彰式の間、観客席のゲスト・ボックスに座っていた。

 息子のひとりは、姉が手をつかんでやめさせるまで、指を口につっ込んでいた(!)。

「あの子たちは何が起きているのかまったくわかっていない。彼らはたぶん、いい景色と、いい遊び場だな、くらいに思っているのだろう。でもここはそんなものじゃないから、いつの日か彼らも理解するんじゃないかな。そうであるよう願うよ」

 フェデラーはまだ非常に幼い息子たちについて、こう言った。

 そして娘たちについては、「娘たちは試合を観ることをちょっぴり楽しんでいる。あの子たちは決勝を観に来たんだと思うよ」と説明した。

 父親がロジャー・フェデラーなら、試合を観に行く日は最後の日曜日まで待つことができる。そして、そのとき彼が金色のトロフィを抱くところも観ることになるかもしれないのだ。(APライター◎ハワード・フェンドリック、翻訳◎テニスマガジン)

※写真は「ウィンブルドン」で8度目、グランドスラムでは19度目の優勝カップを手にしたロジャー・フェデラー(スイス)(撮影◎小山真司/テニスマガジン)