ラグビーワールドカップバトンを継ぐ者たちへ~日本代表OBインタビュー第1回・大西将太郎 前編ラグビーワールドカップに対する思いを語った、元日本代表の大西将太郎氏(撮影協力/クボタスピアーズ船橋・東京ベイ)  4年に一度開催される楕円球の祭典…

ラグビーワールドカップ
バトンを継ぐ者たちへ~日本代表OBインタビュー
第1回・大西将太郎 前編



ラグビーワールドカップに対する思いを語った、元日本代表の大西将太郎氏(撮影協力/クボタスピアーズ船橋・東京ベイ)

 4年に一度開催される楕円球の祭典「ラグビーワールドカップ」が9月8日、フランスの地で開幕を迎える。4年前の前回、日本大会で社会現象を巻き起こしたのは記憶に新しいところだ。その後、日本を含む強豪国は世界的パンデミックに見舞われながらも地道に強化を進め、待ちに待った晴れ舞台を迎えようとしている。

 日本代表は2015年イングランド大会で優勝候補の一角だった南アフリカから歴史的勝利を挙げ、初の3勝(1敗)をマークした。2019年の日本大会ではプール戦4戦全勝で初の8強入り、決勝トーナメント進出を果たすなど、歴史を塗り替え続けている。第10回大会となる節目の今回も、ジャパンへの期待は自ずと高まっている。

 今回は、そんな日本代表でかつて一翼を担い、2007年にフランスで行なわれたラグビーワールドカップのカナダ戦で、日本代表の連敗を止めるコンバージョンゴールを決めた大西将太郎氏に、ワールドカップでの思い出や今大会の日本代表への期待について話を聞いた。

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──いよいよフランス大会が開幕します。日頃から世界のラグビーを解説されている大西さんが特に期待している日本代表のキーマンはどの選手でしょうか?

「まずはやはりFL(フランカー)のリーチ マイケル選手ですね。出場すれば4大会目となる日本のラグビーの象徴的存在です。前回大会の成績(ベスト8)以上にたどり着くことで初めて、彼は満足感を得られると思います。日本代表を一番知り尽くしている男にいい結末が訪れてほしいですね」

──BK(バックス)ではいかがでしょうか?

「FB(フルバック)/WTB(ウイング)の松島幸太朗選手です。彼がTOP14(フランス1部リーグ)でプレーしたのは次がフランス大会だから、ということも理由のひとつのはずです。現地での経験は日本代表にも生きることばかりだと思いますし、出場すれば3大会目となる今回、成長してきた姿をフランスで見せてくれるでしょう。

 ワールドカップの経験が豊富で、そのすばらしさも怖さも知っているふたりが前回大会以上の成績を残して、彼らが納得できる大会になってくれたらいいと思います」

──大西さんが出場された2007年のワールドカップもフランス大会でしたが、大西さんはいつ頃から日本代表を意識していたのでしょうか?

「ラグビーを始めると最初に目指すのは、やはり花園(全国高校ラグビー大会)です。花園に出て、その先の目標だった高校日本代表にも選ばれてスコットランドに遠征させていただいたのですが、それまでどの世代も成し得なかった全勝という結果で遠征を終えることができました。世界を知ると同時に『日本人の力を結集すればできないことなどない』と認識できた勝利でした。それが日本代表を目指したきっかけです」

──多士済済の歴代日本代表のなかで、この選手みたいになりたい、と参考にした選手はいましたか?

「憧れて真似していたのは平尾誠二さんです。後々は海外の選手を見る機会が増えましたが、原点はしなやかで美しい平尾さんのプレーでした。だから大学も平尾さんと同じ同志社に入りました。本当に大きい存在でしたね」

──大西さんを初めて日本代表に招集したのが、当時代表監督だった平尾さんでした。

「こちらが勝手に思っているだけですが、巡り合わせなのかなと。うれしいのひと言でした。『自分からどんどんアピールしていかなあかん』といったアドバイスをいただくなど、すごく勉強させていただきましたね」

──2000年5月のフィジー戦で日本代表デビューし、2003年のワールドカップ出場を目指した大西さんですが、その後は監督の交代、代表の方針変更などもあり、残念ながら出場はなりませんでした。

「2003年オーストラリア大会のメンバーが発表された時はものすごく悔しかったのですが、同年代の選手がワールドカップで活躍している姿を見て『次は絶対に出る』と決意しました。その思いが2007年大会の出場につながりました(結果は0勝3敗1分けで予選プール敗退)。

 ただ、同時に『このまま世界と戦っても......(通用しない)』と思うようになりましたし、一回鼻を折られたことが自分にとって大きかったかなと思います。あらためて自分を見つめ直し、一から鍛え直そうとオーストラリアにラグビー留学しました。

 1年間のうち6か月はオーストラリアで過ごし、6か月は日本で(トップリーグの)シーズンを過ごして、次の6か月はまたオーストラリアへ、というサイクルで海外のラグビーと触れ合ったことが、僕のラグビー人生最大のターニングポイントになったと思っています」

──さらなる成長を遂げた大西さんはその後代表に返り咲き、2007年大会の9か月前に就任した「JK」ことジョン・カーワンHC(ヘッドコーチ)からも代表に呼ばれました。

「僕はどのHCの下でも、HCがどういうラグビーをしたくて、どういった選手を求めているか、ということを常に考えていました。ですからJKが求める選手になる必要がありましたし、何を要求されているのかを理解し、それを意識しながらプレーしていました」

──晴れて大西さんは2007年大会に出場することになるわけですが、日本代表は試合日程の問題で2チーム制を敷いて大会に臨むことになりました。

「試合間隔が短かったので(初戦の)オーストラリア戦組、(2戦目の)フィジー戦組に分かれて大会に臨みました。当時は各方面から否定的な指摘を受けましたが、両組ともそれぞれに与えられた目標に全員が向かっていたと思います。

 2チーム制が正しい選択かどうかはあくまで結果次第でしたから、(自身は出場しなかった)オーストラリア戦(●3-91)のメンバーの頑張りに報いるためにも、フィジー戦に勝つことだけを考えていました。

 (4戦目の)カナダ戦とどちらが印象的だったかと聞かれたら、僕はこのフィジー戦と答えています。自分にとって初めてのワールドカップの試合でしたし、会場での『ジャポン』コールは今でも忘れられません」

──同期のLO(ロック)大野均選手もFWの一員として奮闘しました。

「キャプテンのNo.8(ナンバーエイト)箕内拓郎さんが試合後に(無作為抽出で行なわれる)ドーピング検査を受けることになり記者会見に出られなくなったので、代わりに(大野)均ちゃんが出るはずだったのですが、この1試合で均ちゃんは体重が7キロ減ってしまい、点滴を受けるため会見に出られなくなったんです。それで僕が出ることになったんですが、実は僕も6キロ減っていたんですよね(笑)」

──フィジーには31-35と大接戦でしたが、次のウェールズ戦は残念ながら18-72で大敗となりました。

「僕は試合中に肋骨を折ってしまい、その痛みの影響でウェールズ戦のことはあまり覚えていないんです。ただ、100m近くつないでとったトライは日本のラグビーを世界に知ってもらう大きなトライになりました」

──大野選手が起点となったWTB(ウイング)遠藤幸佑選手のすばらしいトライでした。

「ただ、試合後は大敗の悔しさと疲労をみんな抱えていました。僕はケガのこともあり『(次の)カナダ戦に出るのは絶対に無理。もう僕のワールドカップは終わった』と思い込んでいました。それでも出場することができたのは、痛み止めの注射よりも何よりも『このままワールドカップを終えてしまってええんか』という自分自身への問いかけでした。

 JKには『カナダ戦のメンバー発表は最後の最後まで待ってほしい』とお願いし、JKも『待つ』と言ってくれました。その後の練習でやれることをやったところ、不思議と気持ちも含めて『いける』状態になったんです」

後編に続く>>カナダ戦での伝説のコンバージョンキックを振り返る「蹴る前にレフリーからかけられた言葉が今でも忘れられない」

【profile】
大西 将太郎(おおにし・しょうたろう)
1978年11月18日生まれ、大阪府東大阪市出身。ポジションはSO/CTB。地元の布施ラグビースクールで小3からラグビーを始め、啓光学園高3年時に全国高校大会準優勝。日本代表には2000年、同志社大3年時のオフに初選出。以降、2008年まで通算33キャップを重ねる。ラグビーワールドカップは2007年フランス大会に出場。トップリーグは通算143試合に出場し、2007-2008シーズンはベスト15、得点王、ベストキッカー賞の3冠に輝く。2016年に現役引退し、主に解説者として活動中。