2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。※  ※  ※  ※パリ五輪を…

2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第18回・鎧坂哲哉(明治大―旭化成)前編



2012年箱根駅伝。鎧坂哲哉の好走で、明治大は4年連続となるシード権を獲得した

 長年、トラックで勝負してきた鎧坂哲哉(旭化成)は、東京五輪(2021年)に10000mでの出場を目指したが、予選会で敗れ「引退」を考えた。だが、大迫傑(ナイキ)からの刺激や「マラソンに向いている」という周囲の声に背中を押され、ロードへと新たな1歩を踏み出した。

 準備万全で臨んだ昨年の別府大分毎日マラソンで2位になり、MGC(マラソングランドチャンピオンシップ・10月15日開催)の出場権を獲得。パリ五輪のマラソン日本代表の椅子を勝ちとるという新たな目標が生まれた。

 陸上人生の集大成として、鎧坂は秋の大勝負に臨む──。

【力を入れていたのは駅伝ではなくトラック】

 世羅高2年の時、都大路で優勝。2007年度5000m高校日本人ランク1位になるなどスピードランナーとして鎧坂の名前はすでに全国区だった。そのため高校には多くの大学が勧誘に訪れたが、最後は明治大と中央大の2校に絞られた。

「大学でもトラックで勝負したいと思っていたので、速い先輩がいるのが大きなポイントでした。明治は、松本(昂大)さん、石川(卓哉)さん、東野(賢治)さんたちが活躍されていましたし、監督の西(弘美・現スカウティングマネージャー)さんの存在が大きかったですね。どこの大学の監督さんも真面目に話をしてくださったんですが、西さんだけは笑いをとっておかなきゃという感じで、そういう人柄にもひかれました。中央は当時、上野(裕一郎・現立教大監督)さんが強かったんですが、自分の入学時には卒業してしまうのもあって、最終的に明治に決めました」

 当時の明治にはいろんな選手が集まってきた。日本のトップや世界を目指す選手がいる一方、競技に本気になりきれない選手もいた。学生ゆえに時には楽しいこと、ラクなほうに流されていきそうにもなるが、鎧坂が流されなかったのは、強い先輩たちの姿があったからだ。

「人間ってラクなほう、楽しいほうにいきたくなりますが、なぜ明治にきたのか。今後どうしたいのかを考えると、そこで流されていたら何も残らないですからね。僕を獲ってくれた西さんに恩返しがしたかったですし、両親に学費を払ってもらっているのに遊ぶわけにはいかない。本気で陸上に取り組まないといけないという思いがありました。

 でも、僕がブレずにいられた一番大きな要因は、先輩たちの存在です。特にお世話になったのが石川さんでした。競技に対する姿勢、意識を石川さんから学ぶことができたんです。石川さんが卒業する時、『来季からはおまえがエースなんだからしっかりやれ』と言われた時はピリッときました。先輩がいい道筋を作ってくれたのが大きかったです」

 鎧坂は1年時から頭角を現し、存在感を示し始めた。力を入れていたのは駅伝ではなく、トラックだった。

「大学ではトラックで結果を出すことしか頭になかったですね。箱根は高校の時もチラッと見る程度で、絶対に箱根を走りたいという思いは、他の選手よりは少なかったです。駅伝は10キロぐらいでしたら外さずに走れる自信があったのですが、長い距離に苦手意識があったので箱根の20キロは無理だな、走れないなぁと思っていました」

 秋の駅伝シーズンに向けて、チーム練習は距離走が増えてくる。だが、鎧坂はその距離走になかなか慣れなかった。

「箱根を走るために20キロを走るための練習をしたかというと、特にそういう練習はしていなかったです。30キロ走は何回かやりましたけど、途中で離れたり、みんながゆっくり行っているなかでついていく感じで、そんなに早いペースで走った記憶はないです。ふだんどおりの練習をして、箱根に臨んだ感じでした」

【箱根駅伝4回出走ですべて好走】

 鎧坂はルーキーとして全日本大学駅伝に出走し、3区9位で駅伝デビューを果たすと、箱根駅伝では1区に起用された。

「走りたい区間は特になくて、1区は西さんに『行くぞ』と言われました。スローペースだったんですが、20キロをこの順位(区間3位)で走れるなら、今後も距離走はそんなにいらないなって、ちょっと自信になりました。2年の時は3区で、想定としては、僕の区間か4区でトップに立つ感じだったんです。でも1区がトップできたので、リラックスして後半に上げるような走りができましたし、楽しかったです」

 1年時、鎧坂は1区3位で、チームは総合8位になり、43年ぶりにシード権を獲得した。2年の時は3区3位で総合10位になり2年連続でシード権を確保した。3年の時は、自ら希望してエース区間の2区を走ることになった。そこで鎧坂は、驚異の11人抜きで2区3位という見事な走りっぷりを見せた。

「最初の10キロ地点では、区間15番ぐらいだったんです。あまりにも遅すぎたので、先輩から『鎧坂がやらかしたと思った』と言われるほどでした。結果的に11人抜いたんですが、1区が15位だったので、たまたま前との差がそれほどなかったので抜けた感じです。あと、村澤(明伸・東海大・現SGホールディングス)がビューンって先に行ったんですが、視界から逃げない程度で走って、最後の坂で勝負できるんじゃないかって思っていたんです。でも、甘かった。村澤は最後の坂もしっかりと走りきったので、全然対応できなかった」

 区間賞の村澤(66分52秒)とは44秒差の区間3位だったが、鎧坂の走りがチームを盛り上げて往路4位となり、復路につなげた。この時、総合5位になり、3年連続でシード権を確保するのだが、鎧坂が入学する前まで、明治は駅伝では長い低迷期にいた。

 明治は、なぜ右肩上がりの曲線を描くことができたのだろうか。

「僕は環境と自主性だと思います。当時、明治のグラウンドではエスビー食品や日清食品の選手が練習していたんです。おもしろそうだなと思って、『こっちについてもいいですか』って西さんや実業団の人に聞いて、一緒にやらせてもらっていました。そこで高いレベルの練習ができたのが大きかったですね。さらに自分はこれができないからこれをやろうとか、それぞれが必要なものを考え、自主的に取り組んだ。明治は自分のやりたい練習ができる実業団みたいな環境だったんです。だから、やる人はすごく伸びて、爆発的な力を蓄えていったんだと思います」

 鎧坂も自分に足りないもの、必要なものを常に考え、実業団の選手と練習することが多かった。そうするなか、世界大学クロカンで優勝したり、日本選手権5000mで3位に入るなど、結果を残し、成長することができた。その姿を後輩に見せることでチームの意識も高まった。地道な個々の努力は、鎧坂が4年時にチーム力として一気に開花する。

【4回目の箱根駅伝、当日に監督からまさかの電話】

 ただ、4年時は鎧坂にとっては苦しい1年だった。キャプテンになり、出雲では2区区間新を出し、全日本も2区4位と駅伝では結果を出した。だが、出雲のあとから座骨神経痛に悩まされ、箱根に向けてあまり練習が積めなかった。

「箱根の往路は下級生たちが頑張ってくれて3位につけたんです。『これはいけるぞ』みたいな雰囲気になって、往路が終わったあとに西さんから電話がかかってきて『明日、キロ3分20秒でいけるか』って聞かれたんです。『3分20秒でいいならいけます』と答えたら『10区いくぞ』って言われたので、ラストをしっかり走るぞと気持ちが高ぶりました。でも、当日、走る前に監督から電話がかかってきて、『3分5秒で行こう』と言われたんで、話が違うぞって感じでした(苦笑)」

 9区の細川勇介から襷を受けた時、明治は4位だった。そこから鎧坂が前を行く早稲田大をかわし、順位をひとつ上げて総合3位でフィニッシュした。

 鎧坂はこの時の箱根が4年間で一番印象に残っているという。

「4年の時の10区のゴールは印象的でした。監督は僕の起用を迷っていたと思うんですが、最後は自分を信じてくれた。箱根前も大変でした。僕はキャプテンだったんですけど、国際試合や海外遠征でほとんどチームにいなかったんです。戻ってきたと思ったら座骨神経痛で苦しい時間が続いて、みんなに迷惑をかけた。でも、最後に結果を出せて、みんなが喜んでくれましたし、頑張って本当によかったなと思いました」

 箱根を走った経験は、その後の競技生活にどんな影響を与えたのだろうか。

「大学時代はハーフマラソンは1本も走っていなくて、箱根が唯一の20キロのレースでした。長い距離は苦手でしたが、箱根で頑張ったことで卒業後もいろんな人に『箱根見たよ』って声をかけられたり、覚えていてくれる人が多かった。最後は、本当にいろんな人に支えてもらった。それを知ることで人間的な成長ができました。20キロを走った経験だけではなく、トータルでいろんな経験を得られて箱根を走ってよかったと思いますし、それが今の実業団で競技生活にも活きています」

後編に続く>>五輪挑戦3回失敗で引退覚悟→マラソン挑戦 「乗り気じゃなかった」競技でパリ五輪を目指す理由