日本陸上選手権最終日の6月4日。前日は女子三段跳び森本麻里子(内田建設AC)の24年ぶりの日本記録更新と、女子100mハードル4選手による12秒台の熾烈な戦いに湧いた会場が再び盛り上がったのは、男子110mハードル決勝だった。予選からトッ…

 日本陸上選手権最終日の6月4日。前日は女子三段跳び森本麻里子(内田建設AC)の24年ぶりの日本記録更新と、女子100mハードル4選手による12秒台の熾烈な戦いに湧いた会場が再び盛り上がったのは、男子110mハードル決勝だった。



予選からトップの走りで調子のよさを見せていた泉谷駿介

 前日の予選をトップ通過していた日本記録保持者の泉谷駿介(住友電工)が向かい風0.9mの厳しい条件のなか、序盤はすでに世界選手権参加標準記録を突破している高山峻野(ゼンリン)に先行されながらも、中盤からギアをアップした小気味いいハードル間の走りでスピードを上げて抜けだし、高山を0秒26突き放してゴール。記録は13秒04。自身が2年前に出していた日本記録を0秒02更新する、世界に通用するタイムで3連覇を果たした。

 それでも泉谷は喜びを露わにしなかった。

「12秒台を出したかったな、という気持ちは正直あったんですけど、向かい風で13秒0台ならいいやと思いました」

 今季は5月7日の木南記念が初戦だったが、そこで世界選手権参加標準記録13秒28を突破する13秒25を出した。そして21日のセイコーゴールデングランプリでは海外勢もいるなか、13秒07で優勝と絶好のシーズンインをしていた。

 泉谷が喜びを大きく表現しなかった理由を、指導する順天堂大の山崎一彦監督は「ゴールデングランプリの走りを見て、12秒台は出るなと思っていた。本人も僕たちも意識がそこまでいっているので、大喜びはしなかったのだと思います」と説明する。

「前半は高山さんに出られて少し焦ったけど、そのなかでも自分の持ち味を出せる走りができたのは大きいと思います。前半はちょっともたついたというか、安全にいきすぎたというか......。攻めすぎだとクラッシュすることもあるので、前半は落ち着いていくイメージですが、慌てずにいけて最近の持ち味である中盤からの、ハードル間を刻む走りを生かせたと思います」(泉谷)

 ゴールデングランプリの13秒07と今回の13秒04はともに、現時点では世界選手権で2回優勝しているグラント・ホロウェイ(アメリカ)の13秒01に次ぐ今季世界リスト2位の記録。欧米の選手が本格的なレースを始めるのはこれからだが、昨年の世界リストと比較すれば両方とも6位に相当する世界トップレベルの記録だ。

「ここまで急にきちゃったので、まだ明確な次の目標は立てられないですが、このまま練習を積んでいって流れのままいければいいかなと思います。技術面が上がってきたのも今の好調の要因ですが、僕はけっこう周りのサポートが手厚いので、それに感謝ですね。信頼できるコーチであったり、頼れるトレーナー。すごく仕事ができるマネージャーさんたちがいるお陰で、しっかり競技ができていると思います」

 13秒21がシーズンベストだった昨年は、世界選手権に出場したが準決勝は全体14位の13秒42で敗退。その直後には他の選手の体の大きさに圧倒され、ハードル以外の種目をやったほうがいいかもしれないと弱気な言葉も口にした。だが帰国後にもう一度自分の走りを見直して改善点を研究した。ハードルを跳ぶ時に踏み切りが近くなって詰まってしまう傾向があるため、ハードル間を細かく刻む走りにしてスピードアップできるような取り組みを始めた。山崎監督はそれをこう説明する。

「海外の選手のレースパターンは、後半をいかに落とさないように刻んでいくかという形が多いんです。13秒0台を目指しているだけなら前半から飛び出して行くスタイルでも可能ですが、それでは海外の流れについていけないしそれ以上を狙えない。それで後半の走りを重視した取り組みを始め、ハードル間の刻みのやり方やスプリント、ドリルなどに取り組んだが、それでかなりいい状態ができたと思う。後半は世界のメダルレベルの走りだったと思うし、追い風の好条件なら12秒台が出るかと思える走りでした」

 泉谷も「練習で刻む練習をけっこうやっているので、それが生きたかなと思います。3台目のハードル以降からビルドアップする感覚で、そういう所でこれまではうまく足をさばけず踏み切りがハードルに近かったりしたが、今は遠くから踏み切って安定させるような意識なので多少前半が遅くても仕方ないかなと思います」とレースを振り返る。

 ゴールデングランプリでも泉谷は「前半のもたつき」を口にしていたが、そこも今は改良中だと山崎監督は言う。

「1台目のハードルまでは7歩で行くから、ボーンボーンと大きく、強く走らなくてはいけない。それはインターバルを速く刻む動きとは正反対だから、それをつなげるのは難しいんです。ただ、1台目に向かう時に大きく強く行って(超える手前)ラスト3歩を刻む走りにすれば、1台目を超えてからも速く刻める。今回は1台目のハードルに大きな動きで入ってしまったが、ゴールデングランプリの時は今回より比較的いい感じで入ったので、それをミックスできれば12秒台にも入れると思います」

 今回は向かい風だったこともあり、後半の刻みがうまくいった面もある。泉谷は「追い風になってもあの感じならさばけると思うので自信につながりました。体が小さい分(175cm)、素早い動きができるので、中盤以降の踏み切りも体が大きい人以上に詰まらないと思います。今は小さくてよかったなと思うし、自分の持ち味を生かして素早い動きで行けるならいいかなと思っています」と前向きな言葉を口にする。

 このあと目指すのは、6月下旬に出場するヨーロッパの2試合で、今回のようなタイムを出す走りをすることだ。

「そのくらい出ないとダメだと思うし、そこでしっかり結果を出して世界選手権(8月19日開幕)につながるようなレースができればいいかなと思います。去年は14秒台でシーズンインして日本選手権まで間が開いてしまったので自信はなかったけど、今年は序盤で13秒0台が2本出たので自信になったし、世界の決勝も見えてきました」

 13秒04は昨年の世界選手権では2位に相当する記録で、21年東京五輪なら1位と同タイム。それを予選と準決勝を経たあとの緊張感も最大になる本番で出すのは極めて難しいが、もうひとつ泉谷が目指している12秒台もまだ世界では23人しか出していないハイレベルな記録だ。その大記録を出すことができれば大きな舞台での自信にもつながるはずだ。

 大きな目標が明確になってきた泉谷は今、日本人の誰もが見たことのない新たな世界に踏み出そうとしている。