2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。※  ※  ※  ※パリ五輪を…

2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第17回・西山和弥(東洋大―トヨタ自動車)前編




2018年の箱根駅伝。1年生で1区区間賞を獲った東洋大・西山和弥

 大阪マラソン2023で、マラソン界の新星が誕生した。

 西山和弥は初マラソンの日本最高記録を大きく更新する2時間6分45秒の好タイムを出し、日本人選手トップの総合6位に入った。同時にMGC(マラソングランドチャンピオンシップ・10月15日開催)の出場権を獲得。

 東洋大の1年時、箱根駅伝1区区間賞で衝撃の箱根デビューを果たして以来、一時期伸び悩む時期もあったが、西山はブダペスト世界陸上(8月19日開幕)、MGCを前にして、輝きを取り戻しつつある。

 西山が東京農大二高から東洋大への進学を決めたのは、あるシーンがきっかけになっている。

「自分が大学進学する前の全日本大学駅伝(2015年)で、東洋大が優勝候補の青学大を倒して優勝したんです。粘りの走りというのをレースで感じることができて、陸上選手としてこういう走りができるようになりたいと思いましたし、酒井(俊幸)監督の涙を見て、このチームで陸上をしたいと思ったんです」

 高校時代、自宅から通学していた西山は、大学に入り、はじめての寮生活を経験した。質実剛健で上下関係は厳しいと言われていた東洋大での寮生活で、1年生の仕事はいろいろあったが大きなウエイトを締めていたのが、掃除だった。

「寮の廊下、食堂、トレーニングルーム、トイレ、お風呂、玄関などの掃除は長い時間をかけてかなり徹底的にやりました。練習で疲れていると、今日も掃除かぁ、しんどいなと思う時もありました。でも、掃除は日々の生活での基本ですし、それが今の家の掃除にも活きている部分があるのでやっていてよかったですね」

 西山は入学後、主力組に入りつつ、4月から6月までは補強トレーニングを徹底して行ない、基礎を固めていった。トラックシーズンに次々と自己ベストを更新していくが、大きな転機になったのは、夏休み期間中に参加したトヨタ自動車の網走合宿だった。

「今もですが当時のトヨタ自動車は、実業団トップクラスのチームで、そんなすばらしいチームに1年生の自分が参加させていただくことになったので、これは自分の限界を超えてでも絶対に喰らいついていこうと思って練習しました。このあとなんですよ、秋にさらにタイムが出て、日本インカレの10000mで日本人トップを獲れたんです。この合宿が自分の陸上競技の幅を広げ、力をつけてくれた。すごく大きかったですね」

 2017年の日本学生陸上競技対校選手権大会(日本インカレ)の10000mで西山は、順天堂大のエース塩尻和也(現富士通)らを抑えて28分44秒88の自己ベストで日本人トップの総合3位に入った。その前には日体大記録会5000mで自己ベスト(13分51秒58)、またトライアルinいせさきの3000mも8分06秒92の自己ベストを出して全体トップだった。

 同年の出雲駅伝は1区5位、全日本大学駅伝は3区3位と駅伝でも走れるところを見せ、箱根駅伝につないでいった。のちに1区・西山の鮮烈なイメージを残すことになる第94回大会箱根駅伝(2018年)は、区間エントリ―は消去法に近い感じで1区に決まった。

「ちょうど箱根の頃は練習ができていなくて、監督からも『出るなら1区しか無理』と言われていたんです。自分のうしろには相澤(晃・現旭化成)さん、山本(修二・元旭化成)さん、同期で調子がよかった吉川(洋次・現ヤクルト)がいたので、『おまえのうしろは調子がいいから、なんとか先頭集団で戻ってこい。そこでしかお前は仕事ができない』と言われて。自分でもそう思いましたし、1区なら前で走っても遅れて走ってもテレビに映るじゃないですか。最終的に監督と話し合いをして『死ぬ気で1区でいきます』ということで決まったんです」

 いざ蓋を開けると先頭集団ではなく、先頭で1区を駆けて、区間賞を獲得。その瞬間からメールやLINEなどがひっきりなしに届き、その数は300件以上にも及んだ。

「もう、想像以上の反響でした」

 西山は、改めて箱根駅伝の影響の大きさを実感した。

 2年時も西山は箱根駅伝で1区を任された。ただ、前年の「ここしかない」という状態ではなく、2年のトラックシーズンは関東インカレ10000mで4位、5000mで8位、日本選手権10000mでは自己ベストで4位に入賞するなど好調を維持し、箱根は3区か4区という案が出ていた。だが、駅伝シーズンに入ると調子が下降し、「今年も1区だな」と監督に言われた。

「前半シーズンは好調だったんですが、途中から競技に身が入らなくなって......9月から練習を始めたんですが、出雲と全日本は間に合わなくて散々な結果で......(出雲は2区で区間6位、全日本は2区で区間14位)。メンタル的にもちょっと走れないなぁと弱気になったんですけど、チームメイトや監督、スタッフに支えられて12月に調子が上がってきたんです。これならということで1区の区間賞を獲りに行きました」

 西山は見事、1区区間賞を獲得。2年連続での快挙に箱根1区・西山が定着し、他大学は1区対策を講じるようになる。

 3年生になり、1学年先輩の相澤たちが卒業するシーズンになった。過去2年、往路優勝はしたが総合優勝には届いていなかったので、優勝して先輩たちを送り出したいと思っていた。だが、3年生になる前の1月、西山は恥骨の剥離骨折を患い、完治してからも思うような走りができずに苦しんだ。

「今までの陸上人生で一番つらかったのが、この3年生の時でした。自分の軸となる部分を故障しているので、変なところが力んで、スピードが乗らず、自分の思っている感覚と走りが全然合致しなくて......。出雲も全日本もぜんぜんダメで(出雲は1区で区間10位、全日本は5区で区間11位)、チームに故障者も出てきて。箱根は自分もかなり厳しいなぁと思っていたんですが、それは言えない雰囲気でしたし、自分の状態のことも誰にも相談できなかった。いけます、いけますって言って、結局、迷惑をかけてしまうことになるんです」

 そんな時、西山の支えになったのは、相澤の姿だった。

 相澤とは駅伝でほぼ毎回、襷リレーをし、大会などの遠征にも一緒に行く機会が多かった。

「相澤さんは本当の兄のような存在でした。遠征に行きながら、自分にはこういうところが足りないとか、こういうことをしないと上では戦えないとか、すごく面倒を見てくださって。箱根の前も自分のうしろ向きなところに対して『それじゃダメだ』というメッセージを相澤さんの背中から感じることができました。だから、なんとか結果を出して勝ちたかったんですが......」

 西山は自分の走りを取り戻せず、1区14位に終わり、チームは総合10位だった。

 相澤は、卒業の際、部屋で使用していたテーブルを西山に託した。当初は宮下(隼人・現コニカミノルタ)に渡す予定でいたようだが、西山は相澤から「これを受け継いでくれ」と言われた。

「相澤さんからの激励ですよね。諦めるなという言葉は直接言われなかったんですが、相澤さんの背中や行動から、そう言われているのを感じていました」

 テーブルの裏には、相澤のサインと「箱根がんばれ」という言葉が書いてあった。

 4年時は箱根7区(区間12位)を走ったが、一番印象に残っている箱根駅伝はこの時だという。

「チームとしては3位以内が目標で、実際3位になれたんですが、それまでは『西山さんがいるから』ってみんなに言われていたんです。でも、最後は自分が低調で、誰も自分のことを当てにせず、西山はたぶん無理だろうから俺らで頑張ろうっていう感じで、みんな頑張ってくれたんです。それはすごくありがたかったですね。あと、15キロ地点で箱根を走れなかった大森(龍之介)から給水をしてもらったんですが、そこでのゲキは、すごく心に残りました」

 大森は同期で、高校時代からお互いをよく知っていた。7区でなかなかピッチを上げられない西山は、給水の際、大森に「お前、何やってんだ。こんなところで終わるんじゃない。この先もまだ競技人生は続くけど、箱根はこれが最後なんだぞ」とゲキを飛ばされた。

「その時、今回の箱根はダメだと諦めかけていたんですが、その声で諦めちゃいけない。箱根もこの先もずっと最後まで諦めちゃいけないんだということを、その声で心に刻むことができました」

 西山にとって、1、2年時の1区区間賞は自信になったが、相澤と同じチームにいて、背中を見て走れたことは「大きな財産」になった。また、箱根に臨む際、ハーフを走り、練習を積んだことが、その後の競技人生にプラスになった。

「箱根駅伝(の各区間の距離)はハーフの距離じゃないですか。自分はいずれマラソンで勝負したいと思っていたので、そのための土台と言いますか、マラソンを走るための基礎になったと思います」

 それから2年後、箱根1区と同様に西山は鮮烈なマラソンデビューを果たすことになる。

後編へ続く>>「ダメージが体全体に及ぶ」にもかかわらず、なぜ世界陸上→MGCへの出場を決めたのか