“二刀流”のアスリート。MLBロサンゼルス・エンゼルス大谷翔平の名前を挙げる人も多いだろう。2023年3月、野球世界一を決めるワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では投打にわたる活躍で侍ジャパンを見事14年ぶりの優勝に導いた姿が記憶…

“二刀流”のアスリート。MLBロサンゼルス・エンゼルス大谷翔平の名前を挙げる人も多いだろう。2023年3月、野球世界一を決めるワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では投打にわたる活躍で侍ジャパンを見事14年ぶりの優勝に導いた姿が記憶に新しい。スポーツ界全体を見渡せば、スノーボードとスケードボードにて夏季・冬季五輪の両大会で活躍する平野歩夢も名高く、さかのぼれば橋本聖子・元東京五輪組織委員会会長は両五輪に挑んだ先駆者である。

◆国枝慎吾の後継者・小田凱人 全豪オープン準優勝と「最年少記録を作り続ける運命」

“二刀流”の視点を変えてみよう。WBCで、本業を持ちつつ国を代表し世界一決定戦に出場した選手を思い浮かべる方もいるのではないだろうか。チェコ対日本戦3回1死二塁の場面、チェコ代表で先発のオンジェイ・サトリアは、なんと最速126キロのボールで大谷を3球三振に仕留めてみせた。投手と電気技師との、まさに“二刀流”である。

パナソニック オペレーショナルエクセレンス株式会社人事部門で働きながらパラアスリートとして陸上に挑戦する保田明日美も、まさに“二刀流”アスリートのひとりだろう。 保田は2022年7月3日に行われた「NAGASEカップ」において、非パラリンピック種目ながら女子400メートル走(義足T63)で1分21秒50の世界新記録を樹立した。

保田明日美(やすだ・あすみ)

●パラ陸上選手 2018年にパラ陸上と出会い、22年には女子400メートル(義足T63)で世界新記録を樹立。パラリンピック種目の100メートルと走り幅跳びでパリ2024大会を目指す。パナソニック オペレーショナルエクセレンス株式会社人事部門にて会社員として従事。そのかたわら地域でのパラスポーツ普及に向け精力的に活動。「一度決めたらとことんやる」ストイックさとタフさが強み。

会社員としても活躍する二刀流アスリートでもある保田

■メンバー5人のみのバスケ・チーム

保田は幼稚園の頃から身体を動かすのが大好きだったという。「雲梯(うんてい)に登るのが大好きで、友だちからサルなんて呼ばれていました(笑)。小学校に上がってからも給食後の休み時間になると真っ先に校庭へ走り出してドッヂボールに興じる、そんな感じの快活な少女でした」。

三重県出身の保田は小学校を卒業すると津市にある進学校、高田学苑高田中学・高等学校に進学、バスケットボール部で6年間を過ごした。決して強豪とは呼べないチームだったが、多くの苦楽があったという。

「バスケ部はミニバス出身者が多いんですが、メンバーのほとんどが初心者だったんです。そういう意味では、全員が一からのスタート。みんなが同じスタートラインに立って、一緒にステージを上がっていく楽しさがありました。チームの仲は本当に良く、上下関係もそれほど厳しくはなかったので、みんなで和気あいあいとやっていました。そんな中で一応キャプテンを務めたりして。地区予選2回戦で勝てたら良いぐらいの学校でした。ただ、プレーヤーが5人しかいない時期もあり、1人でも欠けたら試合に出場できない時期があったりととにかく人数が足りなかったんです。4人になってしまった時は、マネージャーに出場してもらったりしたこともあります」。

バスケットボールのように常に選手が走り続ける競技で、一試合に選手全員が出場し続ける、ましてや交代する選手がいない、という状況は稀だ。

「おかげで5人で最後まで試合を続行するんだという結束力は強く生まれました。とにかく一人ひとりが責任を持って最後までコートに立つ、という。スポーツを通しての絆みたいなものが生まれたのか、最近はそれほど密に連絡を取っているわけではありませんが、大人になっても付き合いは続いています」と保田。少人数ならではの苦楽を乗り越え、スポーツとともに青春時代を過ごした。

■大学進学で摂食障害に

大阪大学進学後、スポーツを一旦“お休み”して、アカペラ・サークルや軽音楽部に所属した。大学生活を送るうちに、華やかな周りの学生たちに比べて筋肉質な自分の身体のことが気になりはじめた。

「そこで、ダイエットを始めたんです。大学に入学して一人暮らしを始めると食事も自由になる。部活を引退してから受験勉強のストレスもあって少し太ってしまって。もともと筋肉質なのでコンプレックスみたいなものはあったんですが、大学に入ると周りはみんなおしゃれだし綺麗。このままじゃダメだなと思ったのがきっかけで、ダイエットにのめり込んでしまいました。まったく食べない日も多く、ひと月で10キロ落ちました」。

大学生になるまでの保田には目標があった。バスケットボール部で大会出場を目指す、受験勉強では合格という明確な目標だ。しかし大学では、高校生の頃のように目標を持って一生懸命に打ち込めるものがなかった。その点、ダイエットはわかりやすかった。体重という明らかな数値が結果として現れるからだ。

「周りからも病気なんじゃないかと心配されるほどのダイエットでした。でも、そう言われると『体重が落ちている証拠だ』と思って嬉しくなってしまって……」と、自身でも間違ったゴールを目指してしまったと振り返る。

やがて食べては吐くを繰り返すようになった保田は、摂食障害に苦しむようになった。大学生活も休学と復学とを繰り返すようになり、学士課程は8年かけて卒業した。病院にも通ったが摂食障害を完全に克服することは難しく、「もう大丈夫と思っても、ふとしたきっかけで再発してしまう。出口が見えないまま、だましだまし日々をやり過ごしていた」と保田は語った。

この極端なダイエットについて「私が2キロ痩せようが痩せなかろうが周りの人には気にならないと、今なら落ち着いて考えられるのですが、当時はそんなふうに考えられなかった。摂食障害である事が周りに知られるのも嫌で、家族にしか打ち明けていませんでした。誰かといても、偽りの自分でしか付き合えなかったから、心の中はいつも孤独でした。そんな状態でも、『痩せている私』でなければ生きている価値がないとさえ思っていた」と保田は当時の思いを振り返る。

足を失い大切なものに気づいたという保田

■就職活動中に起こった人生を変える大事故

大学卒業を控えた年、摂食障害を抱えながら地元・三重で働くつもりで職業を探した。しかし精神的に不安定な状態は続き、就職も思うようには決まらない。そんな折、保田は事故に遭う。面接に向かうため、駅のホームで電車を待っているときのことだった。

「就職活動中も摂食障害と付き合っていたので、心の整理がついていなくて疲れが溜まっていたこともあるかもしれません。三重県の企業で最終面接を終えて帰る途中、伊勢中川駅で乗り換えるところでした。あまりよく覚えていないんですが、時刻表か何かを見ようと携帯電話を覗いていたら、貧血でふらっとして……」。貧血で倒れた保田は不運にもそのままホーム下に転落。そこに電車が入線して来た。

幸いにも電車は緊急停止したが、右足が車輪の下敷きになった。保田はこの時のことをよく覚えているという。

「私の場合ずっと意識があって、けっこう覚えています。挟まれた瞬間、バキッと嫌な音と同時にものすごい衝撃が頭に響いて、右足に焼けるような痛みが走りました。挟まれてからもずっと車両の下なんであたりは真っ暗なんですけど、ひたすら痛くて。レスキューの方が降りて来て助け出してくれるところまで覚えてます。気絶できたらどんなによかったことか」と振り返る。

「『これは死ぬんだろうな』と思いました。その時、真っ暗な視界の中に、両親の顔が浮かんできました。摂食障害のことでもたくさん迷惑をかけた両親に謝りたい、という気持ちが湧き上がって来て……助け出されるまでひたすら「お父さんお母さん、ごめんなさい」と叫んでいたのを覚えています」。

足を切断しないと命が危ない、と宣告され、その場で同意を決めたのは救急病院へ向かうドクター・ヘリの中でのことだった。目が覚めると右足がなくなっていた。

◆【後編】アスリートとして二刀流の活躍で世界新記録、「仕事との両立」後進のためにも走り続ける保田明日美

◆「世界一不幸な自分」からの復活、足を失ったからこそ真摯に向き合える競技生活 井谷俊介

提供●NAGASE CUP