【第12回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」 ラグビー日本代表からプロレスラーへ華麗なる転身――。ストロング小林、サンダー杉山、ラッシャー木村とともに「国際プロレス四天王」として一時代を築く一方、団体の旗揚げから活動停止、…

【第12回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

 ラグビー日本代表からプロレスラーへ華麗なる転身――。ストロング小林、サンダー杉山、ラッシャー木村とともに「国際プロレス四天王」として一時代を築く一方、団体の旗揚げから活動停止、解散まで現場責任者として吉原功(よしはら・いさお)社長を支え続けてきたグレート草津とはどのような人物だったのか。古きよき時代を伝える豪快なエピソード満載で、九州男児の強さ、優しさを弟分・アニマル浜口が語る。

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サンダー杉山(左)と腕相撲をするグレート草津(右)

「国際プロレス四天王」のひとり・グレート草津(1)

「ドアを開けた瞬間、僕の目に飛び込んできたんです。一番奥の席に座っていました。ピタッとした短パンを履いていて、太ももがパンパンに張っていましてね。上半身はTシャツを着ていましたが、はち切れんばかりでした。髪はショートカット。言葉が出ませんでした。見とれてしまいました。

 僕もボディビルをやっていて、鍛え上げられた肉体美というのは見慣れていたはずなんですけど、すべてがケタ違いでした。圧倒されて、感動して……。これがプロレスラーかと思いましたよ。スター性があふれていました。それが、グレート草津さんだったんです」

 国際プロレスの吉原功社長から直々に入門を許され、紹介してくれたナニワトレーニングセンターの荻原稔会長に付き添われ、大阪から新幹線に乗って上京。東京・青山にあった国際プロレスの事務所へ挨拶に行き、道場へ入った瞬間のことを、アニマル浜口は今も鮮明に覚えている。

「グレート草津」こと草津正武は熊本工業高校を卒業後、社会人ラグビーの八幡製鉄へと入社した。全国社会人大会や日本ラグビーフットボール協会招待NHK杯争奪ラグビー大会(日本選手権の前身)を制覇し、1960年から1964年にかけて黄金時代を築くと、日本代表のカナダ遠征メンバーにも選出され、1963年4月13日のブリティッシュ・コロンビア州代表戦に出場。日本代表キャップを獲得し、33-6で日本代表の海外遠征テストマッチ初勝利に貢献した。

 ポジションはロック。八幡製鉄時代の体格は189cm・93kg。現在、日本代表として活躍し、歴代最多キャップを誇る大野均(東芝ブレイブルーパス)の192cm・105kgと比べても見劣りせず、草津がプレーした昭和30年代後半においては、日本代表フォワードのなかでもずば抜けたスケールだった。

「僕は兵庫県のボディビル大会に出場するために身体を絞っていましたから、入門したときは84kgぐらいだったかな。入団後は食事を1日4~5回ぐらい食べて、また身体を大きくしていきました。『雪印チーズ』の塊(かたまり)をまるまる1個食べてたりして。それでも、体重は100kgちょっとくらいでした。

 ただ、とにかく食って、食って、身体は大きくなったけど、もともとタッパ(身長)がないでしょ。草津さんはプロレスラーになってからもさらに身体が大きくなったそうで、全盛時のプロフィールには192cm・118kgとありました。僕なんかとは比べものになりませんでしたよ」

 1964年度シーズン終了後、八幡製鉄を退職。そして1965年7月30日、日本プロレス入りした草津は当初ジャイアント馬場の付け人となり、1966年3月21日に本間和夫戦でデビューを果たすも、ほどなくして退団した。

 その後、吉原功のもと、アメリカのリングで活躍していたヒロ・マツダ、彼の東京・日体荏原(えばら)高校時代の後輩であるマティ鈴木、東京オリンピックにレスリング・グレコローマンスタイル最重量級代表として出場した杉山恒治(サンダー杉山)らとともに「国際プロレス」を旗揚げ。浜口が入門したころ、グレート草津はストロング小林、サンダー杉山、ラッシャー木村と並ぶ「四天王」のひとりとして、押しも押されもせぬ国際プロレスの看板スターだった。

「何をやってもすごかったですよ。ラグビーで鍛えていたからパワーはスゴいし、スタミナがあってタフでした。ラグビーというのは『走る格闘技』でしょ。走っていたから、とにかく下半身が強いし、スピードがありました」

 草津はフォワードながら、100mを11秒2で走る快足の持ち主。バックス並みのスピードとパワーを武器に、ボールを持って突進しては相手をなぎ倒し、グラウンドを縦横無尽に駆け回っていた。

「スポーツ選手としてのセンスも生まれつきあったんでしょうね。僕が一番驚いたのは、ドロップキックの高さ。あれだけの高さがあり、それでもって綺麗でしょう。デカいから迫力満点。必ず敵に突き刺さる。あんなドロップキック、日本のリングはもちろん、海外でも見たことがなかったですね。だから、吉原社長がよく言っていたもんです。『木村の上半身と草津の下半身をくっつけたら、とんでもないレスラーになるだろうな。ジャイアント馬場だろうが、アントニオ猪木だろうが、勝てっこない』とね。

 草津さんの場合、木村さんとは違う『強さ』なんですよね。木村さんはドッシリというか重厚で、何でも受けて立つような強さでした。だけど、草津さんは強いんだけど身体が軽い。するすると動いて、相手をかわしていく。ラグビーというのは1対1だけじゃなく、ボールを持ったら敵が四方八方から何人も襲ってきますよね。それをうまくかわしてきたでしょうから、キレがあったんですね。まるでダンスのステップみたいに軽快でした。

 まぁ、木村さんと草津さんは、もともと性格がまったく違っていましたからね。草津さんはひと言で言うと『粋(いき)』でしたよ。ラグビー時代から海外遠征でカナダなどあちこちに行っていましたから、英語が堪能で、何事にもセンスがよかった。よく『垢抜けている』って言うでしょ。僕らも海外遠征から帰ってくると、ちょっと垢抜けて洋服選びや着こなしが変わってきたけど、とにかく草津さんはさりげないけどお洒落で、誰よりも垢抜けていましたね」

(つづく)
【連載】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

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