2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。※  ※  ※  ※パリ五輪を…

2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第16回・佐藤悠基(東海大―日清食品グループ―SGホールディングス)前編



2007年の箱根駅伝1区で区間新記録を出した佐藤悠基(東海大)

 中学時代から陸上界で有名だった佐藤悠基は、箱根駅伝でその名前を全国区にし、今も実業団(SGホールディングス)でトップランナーとして走り続けている。競技に対する姿勢や練習におけるこだわりなど、佐藤のすごさは単に競技だけではなく、独特の思考にあるとも言える。

 佐藤にとって五輪はどういう舞台なのか。

 そして、どのように2度目のMGC(マラソングランドチャンピオンシップ・10月15日開催)に臨んでいくのだろうか──。

 佐藤は佐久長聖高の3年時、10000m28分07秒39で当時の高校記録を出し、5000mも13分45秒23(当時高校歴代3位)など、圧倒的な強さを見せた。

「高校の時は競技の指導どうこうよりも生活面の指導が主でした。それがあってようやく競技者として始まるというのが両角(速)先生(現東海大駅伝監督)の教えでした。特に挨拶とか、身の回りの整理整頓には厳しかったですね。たまに抜き打ちで部屋のチェックがあって、汚いと練習できずに片づけをさせられましたけど、僕はそういうのには1回も引っかからなかったです。高校時代に学んだことを習慣化できたことが今にも至っていると思います」

 1学年上の上野裕一郎(現立教大駅伝監督)が毎日、怒鳴られていたのとは対照的に、佐藤は上野曰く「優等生」だったという。生活面では優等生、競技では全国トップレベルのエースは、卒業を前に各大学の垂涎の的だった。

 その佐藤が選んだ進学先が東海大だった。

「僕が大学を選ぶ際に重視したのは、環境でした。東海大は、キャンパス内にいろんな施設があって、寮もできたばかりで1、2年生がふたり部屋、3、4年生がひとり部屋だったんです。他大学の話を聞いたら4人部屋で1年から4年まで一緒みたいな感じのことを聞いていたので、それだとプライベートの時間がなく、キツイなっていうのがありました。あと、ひとつ上に伊達(秀晃・元中国電力)さんという当時、学生四天王と呼ばれる強い先輩がいたので、練習相手に困らないというのも大きかったです」

【箱根駅伝に興味はなかった】

 佐藤は、高2の都大路で4区区間賞を獲得しており、トラックだけではなく、駅伝でも強さを見せた。だが、箱根駅伝を見たのは、東海大への入学が決まった高3の冬が初めてだった。

「高校時代は、箱根駅伝に興味がなかったです。高3の時、東海大が往路優勝したのを見たのが初めてで、大学に入っても箱根を意識することはなかったです。年間スケジュールにある大会のひとつという位置づけでしたし、みんなと一緒に駅伝で優勝を目指すのは大きなモチベーションになるので、そのよい雰囲気のなかでいいトレーニングをして、強くなればいいかなと。箱根を利用して、世界にチャレンジしていきたいと考えていました」

 多くの学生が箱根を駆けることを主として考えているが、強くなるためのひとつの大会にすぎないという考えは、どこから生じてきたのだろうか。

「高校の時に世界ジュニアユースとか、世界クロカンとかに出て、自分は全然、歯が立たなかったんです。そういうところで勝負するにはどうしたらいいのか。強い留学生たちに、たまに勝つけど、もっとちゃんと勝つためにはどうしたらいいのか。世界標準を目指していたので駅伝だとか、トラックだという考えはなく、陸上で強くなりたいと思って競技を続けていましたね」

【駅伝はチームの駒になりきること】

 佐藤は1年時から主力として活躍し、出雲駅伝に出走、優勝に貢献した。箱根駅伝は3区に抜擢されたが、区間に対するこだわりはなかった。

「強ければ、どの区間でも走れるでしょという考えでいたので、走りたい区間もなかったです。よくどの区間をどんな意気込みで走りたいですかって聞かれましたけど、『そういうの関係ないから』と思っていました。駅伝はチームの駒になりきって、その駒を監督とコーチが、どう配置するかなので、最強の駒になれれば意思なんて必要ないんです。与えられた区間で自分の仕事をするだけ。それは当時から今も変わらないです」

 最強の駒になるためには、ハーフを超える距離を走れる力が必要になるが、1年目の箱根は20キロを超える距離の経験がなく、ほぼぶっつけで3区に臨んだ。過去の区間記録を見て、キロ2分55秒ぐらいのペースでということだけ頭に入れて走ると、区間新のタイムが生まれた。

 だが、佐藤の名前が日本中に大きな衝撃を与え、クローズアップされたのは大学2年時の1区での区間新だ。2022年の箱根駅伝で吉居大和(中央大)に破られるまで15年間、区間最高記録だった。

「1区の区間新は、僕が飛び出したように見えたみたいですが、実は大西(智也・東洋大・現旭化成コーチ)についていっただけ。最初のカーブを曲がって少ししてうしろをみたら10m以上離れていたので、そのままのペースでいったら2位との差(4分01秒差)が大きく開いていた。僕の記録は、近年の学生のレベルからすると抜かれるのは時間の問題だと思っていました。吉居君の走りはテレビで見ていましたが、彼の能力からしたら抜いて当たり前だと思うので、抜かれてもなんとも思わなかったですね。僕も先輩たちが作ってきた記録を抜くのをモチベーションにしてやってきたので」

 この1区は佐藤にとって箱根で一番よい走りだったが、箱根の記憶として、最も印象に残っているのは、この快走ではない。3年時の7区区間新でもなく、チームの結果にあった。

「箱根で一番、印象に残っているのは3年の時です。10区時点で7位にいて、このままシード権はいけるなって思って、大手町のゴールで待っていたんです。全然来ないなぁって思っていたら観客の人が『棄権したらしいよ』って教えてくれて。レースは、自分たちが思い描いたプランで進行することができなかったんですが、それでもシードは確保できると思っていました。最後の最後に、最悪のアクシデントが待っているとは思わなかったので衝撃が大きかったです」

 この時、東海大は10区走者が馬場先門(20.1キロ)まで7位で走っていたがラスト数キロで棄権し、シード権を失った。4年時は、予選会から出走し、箱根駅伝への出場を決めた。この時、クローズアップされたのは、佐藤の4年連続区間新という大記録だった。

「4年目の時は、周囲が騒いでいたので鬱陶しいなと思いつつ、多少プレッシャーも感じていました。個人的には(4年連続区間新を)出せたらいいかなぐらいにしか思っていなかったです。監督には、3区か4区、どっちでもいいと言われていました。4区を走れば区間新が出たと思うんですけど、チームのことを考えると1区、2区で厳しくなり、3区もダメだと4区では取り返しのつかないことになる。何かあった時のことを考えて3区に回りました」

【箱根駅伝3年連続区間新を出して感じること】

 4年時は、雌伏の1年だった。春にアメリカでのレースで故障し、足の状態がよくないままシーズンに入った。自分でコントロールして走ることができない状態が続き、レースは大学のポイントが勝敗を分けるインカレなど出場が求められる大会だけに絞った。

「個人のレースはほぼ全部キャンセルしました。状態がよくないなか、焦って無理するよりも1年間しっかりとトレーニングする時間に充てて、実業団に入ってから走ろうと思っていました。大学では走っても1円にもならないので、それなら実業団に入って、しっかりと走ってお金を稼いだほうがいいと思ったんです。捨てた1年というと言い方が悪いですけど、そんな感じでした。箱根は襷をもらった順位が18位とかなり悪かったので、前半から無理して入り、その分伸びなかった。区間新は出せなかったですけど、(区間2位という)結果に対して落ち込むことは一切なかったです」

 佐藤はトータルで箱根を4回走り、3度の区間新、2位を一度という成績を残した。長らく1区の区間記録となっていたことについては、「箱根絡みの仕事がもらえる恩恵を受けていた」と笑った。最高の強化の場となった箱根は、その後の競技生活にどんな影響を与えたのだろうか。

「今の自分があるのは、箱根をやりつつ4年間をしっかり過ごし、よい経験ができたからだと思っています。その経験を元に、今、いろいろと試行錯誤しながらやれているので。また、自分の名前が立った時期でもありました。箱根を4回走り、ある程度結果を残したことで世間的に認知されるようになった。箱根の影響力の大きさを感じましたし、この4回の箱根で選手としてのブランドを少しは高めることができたのかなと思います」

後編へ続く>>「ベテラン」という言葉に違和感 「本気で世界を目指している選手にとって年齢は関係ない」