元広島・道原裕幸氏が語る三篠寮(2011年解体)の思い出 2011年に解体されたが、かつて広島市西区に広島の三篠寮(三省寮)と三篠練習場があった。現在、大野寮(廿日市市)の寮長を務める道原裕幸氏も1971年ドラフト1位で入団した当初はそこで…

元広島・道原裕幸氏が語る三篠寮(2011年解体)の思い出

 2011年に解体されたが、かつて広島市西区に広島の三篠寮(三省寮)と三篠練習場があった。現在、大野寮(廿日市市)の寮長を務める道原裕幸氏も1971年ドラフト1位で入団した当初はそこで生活した。加えて現役引退後に三篠寮の寮長を務めた時期もあって思い出深い場所でもある。当然、令和の今とは寮の設備など、いろんな面で違う部分が多かった。その中のひとつである“エアコン問題”を振り返ってもらった。

 道原氏は当時を思い出しながら苦笑した。「今の寮は個人部屋で、ベッドで布団も球団が用意してくれますけど、あの頃は6畳に2人。ベッドじゃなくて布団も持ち込みでしたね」。エアコンも現在は普通に部屋についているが、道原氏が入団当時の三篠寮には「1部屋か2部屋くらいしかついてなかった」という。それも一流選手が買って持ち込んだもの。部屋にクーラーがあるのがすごいことでもあった。

「だって、あの頃のクーラーは20万くらいしたんじゃないですかねぇ……。給料は10万くらいでしたから、つけられる選手はあまりいなかったんですよ」。気候も昔と今では違うといわれるが、それでもクーラーなしでの生活はやはり暑かった。「みんな扇風機でしたけど、僕はそれもなかったですね。確か池谷(公二郎投手)だったと思うけど、寝れないからって、寮の屋上で寝てましたよ」。

 何とか冷やそうと屋根に水をかける選手もいたそうだ。「僕は部屋が2階だったんですが、上から音がするんですよ。水をかけている音が……。ホースでバーってかけてましたね」。“灼熱地獄”も、今でこそ笑い話になるが、当時は笑える話ではない。

1975年初Vの頃に東京遠征では1人部屋に「うれしかった」

「(1975年の)初優勝するくらいから、先発ピッチャーだけ登板前日はどこかのホテルで寝るようになりましたね。涼しいところでね。そういうこともありましたね。でも野手はなかったですよ」

 寮の2人部屋も苦にならなかったわけではないが「あの頃は遠征先も4人部屋とか、5、6人の大部屋。旅館で2人部屋だったらもう最高でしたからね。昔はそれが当たり前でしたしね」と振り返る。「それも初優勝のころから東京遠征では1人部屋になったんですよ。狭くて、隣の部屋のテレビの音もガンガン聞こえてましたけど、あれはうれしかったですね」と、思い出しながら、また笑みをこぼした。

 現在の大野寮について「そりゃあ、最高ですよ。個室でエアコンはついているし、食事もいいしね」と声を大にする。時代が変化しているのだから、それは当然のことだろう。今の選手にとってはそれが当たり前のことであり、昔と今を比べることはできるはずもない。でも、過去にそんな大変な時代があったのもまた事実。今の選手たちは練習環境も含めて、どれだけ恵まれているかを理解するためにも、そんな昔を知っておく必要はあるかもしれない。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)