●今季世界最高得点で発進 3月23日、さいたまスーパーアリーナ。フィギュアスケートの世界選手権、男子シングル競技が行なわれたメインリンクでは、この日一番の歓声と拍手が降り注いでいた。 スタンドの一角では、どうにか感動を伝えようと、声にならな…

●今季世界最高得点で発進

 3月23日、さいたまスーパーアリーナ。フィギュアスケートの世界選手権、男子シングル競技が行なわれたメインリンクでは、この日一番の歓声と拍手が降り注いでいた。

 スタンドの一角では、どうにか感動を伝えようと、声にならない叫びになった。音は重なり合い、地鳴りのように響いていた。

 熱気の渦の中心にいた宇野昌磨(25歳、トヨタ自動車)は演技直後、拳をつくって2度振り下ろした。



世界選手権男子シングルSPの宇野昌磨

 論理的思考を好み、学者肌のようなところもあるが、熱くたぎった勇敢さや野心を隠し持っている。その感情が表に出た瞬間だった。

「久しぶりに、感情を試合にぶつけるような演技になりました。いつもよりは、『さあ頑張るぞ』と思っていたので。その分、最後はうれしさが込み上げてきたんじゃないかなって」

 世界王者である宇野は、そう振り返っている。今シーズン世界最高となる104.63点で堂々の首位に立った。連覇に向け、最高のスタートを切ったわけだが......。

●本番直前は「今年一、ひどい状態」

 何が彼をそこまで本気にさせたのか?

「今年一、ひどい状態」

 宇野本人がそう告白するほど、最近10日間ほどは調子を落としていた。大会開幕前日の公式練習でも、類がないほどジャンプの成功確率が低かった。特にループ、サルコウ、フリップの3本は素人目でも調子が狂っていた。

「全部のジャンプが調子悪いので、靴の(問題の)気もするんですけど、だからと言って、どうすることもできない。

 跳ぶ前に跳べるイメージが湧かないので、どうしたものか。20%の確率のジャンプで、いろいろ模索はしていますが、これって変わる気配はないので。これでやるって覚悟を決めて、自分で見つけるしかない」

 宇野は淡々とした口ぶりだったが、練習では限界まで攻めていた。それが翌日の公式練習でのケガにもつながったか。サルコウの着氷で右足首を捻り、氷の上に崩れ落ちた。

 不調に加え、ケガまで背負うことになった。ケガは予防をしていたことで、そこまで大事には至らなかったという。しかし、試合の日の朝の公式練習では恐る恐るの様子だった。

「逆境に強いかはわからないですけど。こういう経験は過去にもしてきて。痛いなかでの練習もやっていました。

 当時は身のためにならないって思ったこともありますが、そのおかげで予想ができました。どこをかばって、どういうジャンプになるかって」

 宇野は言った。幼い頃から練習の虫だった生き方に、強さの幅が見えた。並の選手なら屈するところ、瞠目(どうもく)すべき底力だ。

「悪いからと言って、救済もない。今の自分は何ができるか、それだけで。フリップが痛くて跳べないんだったら、他のジャンプ。跳べそうなら、絶対フリップって決めて。

 自分は直前に変えたジャンプで成功した例がほとんどないので。6分間練習では、いつもどおり跳ぶことができていて、右足のケガの支障なく滑ることができました」

●とっさの適切な選択が王者のゆえん

 本番前の6分間練習の宇野は前日までとは別人のようだった。ほとんどすべてのジャンプを成功。調子の悪さやケガの不安を払拭していた。

「練習していたことが本番で出る」が信条だが、その理屈さえ凌駕したのは、彼がこれまで練習を裏切らなかったからだろう。

 一度リンクから降りたあと、ステファン・ランビエルコーチからアドバイスを受けていたが、珍しく上の空で、内面世界に入ったのか、静かな気迫がみなぎっていた。

 意を決した宇野は、『Gravity』の旋律に自然と体を動かしている。冒頭、4回転フリップを成功。2.99点ものGOE(出来ばえ点)がついた。

 あれだけ苦戦していたフリップを難なくクリア。そのあとの4回転トーループ+2回転トーループは、3回転トーループが予定構成だったが、とっさの判断だった。

「想像よりもきれいに跳ぶことができました。まずは単発のトーループを降りて、と思って、トリプルやろうか迷ったんですが、構えた踏切はダブルだったし、中途半端にやって、こけてしまうのは最悪なので。

 まあ、(2回転にすると)みなさんに言われるだろうな、とは思いましたが(笑)」

 その判断も、世界王者がなせる業だろう。瞬時に最適な選択ができるか。わずかな迷いが、すべてを狂わせる。それが常勝選手と惜しい選手との差だ。

「今までやってきた練習は無駄ではなくて。気持ちひとつで投げやりにならず。たとえできなくても最善を尽くす、と思っていました」

 最後のトリプルアクセルは飛距離も出て、美しかった。

 絶対王者である宇野は、日々の練習に支えられている。そのおかげで、臨機応変に臨める。悪いなりの演技ができるし、ギリギリの判断ができる。練習の分厚さで、スケーターとして突き動かされているというのか。

「今回のショートは、1年間、ジャンプだけでなく、スピン、ステップも仕上げてきて。レベルはちょこっと落としましたが、やり残したことがないプログラムになったかなと。そこが一番よかったと思います」

●世界連覇へ向け「できる」

 喝采を浴びたのは、当然だった。スケーティングの質で他を圧倒していた。柔らかい肩甲骨、股関節でステップを踏み、指先まで音を拾った。プログラムコンポーネンツでは、2位のイリア・マリニンに6点以上も差もつけた。

「フリーに向けては、ショートが終わって気持ちがたかぶっていているので、勝手に『できる』と思っていますが。どう挑むべきか、まずは冷静に練習をしながら考えたいと思います」

 落ち着いた様子で語った宇野は、すでに次へ視線を向けていた。彼の原点は練習で自らと向き合うことなのだろう。世界連覇への祝祭が近づいた。

 3月25日、フリーは『G線上のアリア』で、会場は再び興奮のるつぼと化す。日の丸が振られ、バナーが掲げられ、風景が色づく。