「うらやましいですね。だって、野球人生を2度送ったようなもんですから。本格派として頂点を極めて、その後ナックルボーラーですから……」 かつて、アメリカの地でメジャーという頂点を目指して競い合った根鈴雄次(ねれい・…

「うらやましいですね。だって、野球人生を2度送ったようなもんですから。本格派として頂点を極めて、その後ナックルボーラーですから……」

 かつて、アメリカの地でメジャーという頂点を目指して競い合った根鈴雄次(ねれい・ゆうじ)は、大家友和の野球人生についてこう語ってくれた。


メジャー通算51勝を挙げた大家友和

 ふたりがアメリカで対戦したのは、もう17年も前のことになる。将来を嘱望されながら高校でドロップアウト。紆余曲折の末、それでも夢を追いかけ単身アメリカに渡り、マイナー最上級の3Aまで上り詰めた野球界の流浪人は、大家と一度だけ対戦したときのことを今でも鮮明に覚えている。

「3打数2安打だったかな。ホームランを打ったんですよ。あの年、あいつは3Aで完全試合をして、メジャーに上がったんだけど、また戻ってきて……。そういう時期に対戦したんです。ウチのチームとしては『厄介なピッチャーが来たな』という印象でした。オレ個人としては楽しみにしていましたけど」

 試合後、大家は根鈴のロッカールームを訪ねてきたという。

「向こうの宿舎がちょうどオレの住んでいたホテルだったので、『晩飯でも行こう』って。最後はオレの部屋で飲み明かしましたよ」

 そのふたりだけの酒宴の席で、大家は日本球界で生き抜く難しさを吐露(とろ)していたという。

 1993年のドラフトで大家は3位指名を受けて横浜ベイスターズ(現・横浜DeNA)のユニフォームに袖を通した。当時、1、2位には大学・社会人選手の逆指名枠が設けられていたことを考えると、高卒ルーキーとしては最高級の評価を受けての入団だったといえる。

 球団の期待通り、大家はルーキーイヤーに15試合登板し、初勝利も挙げている。しかし、その後、日本を離れるまで大家が勝利投手になることはなかった。

 1997年、一度も一軍のマウンドに立つことがなかった大家は、フロリダで行なわれていた教育リーグに参加し、ここで自分の居場所を見つける。帰国後、メジャー挑戦の意思を球団に伝えた大家は、翌シーズン、二軍で最優秀防御率のタイトルを獲り、横浜を離れた。

 1999年、2Aからマイナーのキャリアをスタートさせた大家は、連勝を重ね、3Aを経て7月にはメジャー初登板を果たし、10月には初勝利を飾るなど、才能を開花させた。

 そして2001年半ばにモントリオール・エクスポズに移籍すると、2002年から2年連続2ケタ勝利を飾るなどローテーションの軸として活躍。以後、ミルウォーキー・ブリュワーズ、トロント・ブルージェイズ、クリーブランド・インディアンスと、実に10シーズンにわたってメジャーのマウンドに立ち続けた。

 メジャーで積み上げた勝利数「51」は、野茂英雄の123、黒田博樹の79、岩隈久志の63、松坂大輔の56、ダルビッシュ有の52に次ぐ日本人6位の数字である。
※成績は2017年6月22日現在

 メジャー球団と契約できなかった2010年は、メキシカンリーグに活路を求めるが、登板機会がないまま開幕直後にリリースされてしまう。

 この後、横浜に復帰し、このシーズンは7勝を挙げるも、翌年0勝に終わると、自由契約を言い渡された。このとき35歳。速球にも衰えが見られ、傍目には「このまま引退か」と思われたが、大家のなかにそのような考えはまったくなかった。

 大家は翌シーズンから独立リーグのルートインBCリーグに身を投じ、ここでナックルボーラーへの転身を模索することになる。

 筆者は2013年、富山サンダーバーズのユニフォームを着て、マウンドから懸命に遅球を投げ込む大家の姿を見ている。

 その試合、大家はマウンドを支配できずに苦しんでいた。このレベルであるなら、普通にストレート主体のピッチングでも十分に通用したはずだ。しかし、あえて新球に取り組んでいたのは、彼の目指すところがメジャーのマウンドだったからにほかならない。翌年の春、大家はメジャーのキャンプに参加していた。

「投げる場所がある限り、投げ続ける」
「目指すのは、あくまでメジャー」

 大家は自身の野球哲学を貫いた。はね返されても、はね返されても、メジャーを目指してプレーの場を求めた。結局、2014年はアメリカの独立リーグで過ごし、翌年は再びBCリーグの富山に復帰。ここでもシーズン中にリリースされたが、その後、同じBCリーグの福島ホープスでプレーを続けた。

 昨年、3年ぶりに見た彼のマウンド姿からは、明らかな成長を感じた。ナックルボーラーとしてマウンドを支配するする姿がそこにはあった。

 そして41歳で迎えたこの春、大家はメジャーの舞台を目指し、再びアメリカに渡った。

 結局、これが大家にとっての最後の挑戦となった。ボルチモア・オリオールズのマイナーキャンプに参加していた大家だったが、キャンプ終盤にリリースを通告された。フロリダの真っ青な空は、メジャーを目指して階段を駆け上がろうとしていたあの頃のままだったが、その青空の下で汗を流す大家の頭髪には白いものが増えていた。

 ぶっきらぼう――書き手の立場からみた大家の印象をひと言で表せば、この言葉に集約されるだろう。良くも悪くも周囲に媚(こ)びることはない。メジャーリーグにおいても、リップサービスなどということは一切せず、素人じみた質問に対してはダンマリを決め込む。こうした姿勢が日本球界に馴染めなかった理由なのかもしれない。アメリカでも、3A時代に同僚相手に大立ち回りを演じたことがある。しかし、この「ぶっきらぼう」という言葉の裏返しでもある芯の強さが、世界の頂点で51個の勝ち星を積み上げた礎(いしずえ)であることは間違いない。

「3Aって、そういうところなんですよ。特にメジャーから落ちてきた選手は反骨心いっぱいですから。チームメイトはみんなライバルですからね。ギスギスしているんですよ」

 前述の根鈴は、大家の姿勢に対してそう答えた。

「でも、いいヤツですよ。オレに対してもわざわざ挨拶しに来てくれましたから。ホントは気さくなヤツなんですよ」

 昨シーズン、大家は登板のない日は所属している福島ホープスが配信しているネット中継の解説者として、マイクの前に座っていたという。若い選手のチャレンジの場として独立リーグを盛り上げようと、率先してファンサービスに務めていた。

 そんな男が、ついにユニフォームを脱ぐ決意をした。アメリカでは、メジャー、マイナーが開幕を迎えた後、レベルの高い順に独立リーグが開幕していく。おそらく今回の決断は、最もレベルの低いリーグの開幕を待っていたが、結局、契約には至らず、引退を決めたのだろう。

「彼らしいと思いますよ。行き先がなくなったからやめるということですから」

 根鈴は、そんな大家の野球人生をうらやむ。ナックルボーラーとしてメジャーの舞台に上がることはなかったが、力を出し尽くしての引退に、悔いは残らないはずだ。

 大家の2度目の野球人生はここで幕を閉じた。しかし、すべてが終わったわけではない。大家友和3度目の野球人生に幸あらんことを願う。