小平奈緒インタビュー(後編)前編:「数字=私の評価にはすごく違和感があった」>> 昨年の10月22日のラストレース以降、講演などの依頼を数多く受け、忙しい日々を過ごしているという小平奈緒(相澤病院)。「これからポツポツと子供たちとふれ合うス…

小平奈緒インタビュー(後編)

前編:「数字=私の評価にはすごく違和感があった」>>

 昨年の10月22日のラストレース以降、講演などの依頼を数多く受け、忙しい日々を過ごしているという小平奈緒(相澤病院)。

「これからポツポツと子供たちとふれ合うスケート教室も入ってきますが、今は講演が多いですね。競技をしているときはコンディショニングを高めるためだけに生活していればよかった。もちろんハードなトレーニングでは身体的にすごく疲れるけど、気持ちには余裕がありました。でも今は話をしなければいけないので、頭の中で言葉がごった返していている感じです。



引退後も充実した日々を送っているという小平奈緒さん

 確かに自分の言葉で準備をしているはずなのに、何回か繰り返しているうちに借り物のような言葉に感じてしまったり。言葉が生きてないなというか、動き出してこないなというか。止まっているような感覚になってしまって......。でも今は経験をこなしていくのが大事なのかなと思っています。トレーニングもそうですけど、慣れるまではやっぱりきついですね」

 両親の世代の人たちの前で話をする機会も多いというが、その時は娘のように「奈緒ちゃん、奈緒ちゃん」と言ってくれて、心が和むという。

「見守ってくれていた人が、こんなにたくさんいたんだなというのを実感します。観客席とリンクでは、なかなか感じ取れなかったつながりを実際に目の前で感じ取ることができて、とてもいい時間を過ごせています」

【勝つことだけがすべてではない】

 4回の五輪を経験し、世界の頂点に立つことや、世界記録樹立も果たした一方、ケガなどで苦しんだ時期もある。そんな競技生活のなかで、自分がスポーツをやる意味や、意義も考えてきた。

「スポーツの世界では人間力が必要と言われるけど、私はそれがあまり好きではなくて、人間力ではなくて人間性だと思っているんです。やっぱり"力"となると力比べになってしまう。強くなくてもそれぞれの良さが輝いていれば、それがスポーツの良さではないかと思うんです。勝つことを目指すのは悪いことではないけど、それだけが目的になってしまうとスポーツの中身が無機質になってしまう気がするんですよね。

 確かに私も世界記録や五輪の金メダルという『目標』を掲げていましたが、その先に『目的』を持つようにしたいと考えていました。子供たちの前で話した時には『一番上に来るのは目的で、それは私にとって唯一無二の自己表現だった』と言ったんです。その唯一無二の自己表現を目指すためには目標も必要で、勝つこともその自己表現に深みを与えてくれるものだと。だから、勝利を目指すことにスポーツの意味があるというところは伝えていきたいけど、そこに縛られすぎてはいけないということも伝えたいんです。

 そこがゴールになってしまうと、叶わなかった時には心が折れるし、叶った時にもプツンと人生が終わってしまう。スケートだけで叶えたい目的ではなく、人生の目的をその上にちゃんと設定しておけば、どんな人生だったとしても、目標を変えてもう一回歩き出せるのではないかと思います」

【見る人が何かを感じてくれたら最高のギフト】


地元・長野でスタンド満員のなか、最後のレースを滑った小平奈緒

 photo by AFLO SPORT

 スケートを始めた頃は、ここまで続けるとは思っていなかった。「気がついたら36歳になっちゃいましたね」と笑う小平は、スポーツの対する考え方も徐々に変わってきたという。

「最初は結果を出すために頑張っていましたが、段々自分の体に興味を持つようになって。股関節を痛めたのは、多分スポーツをやっていると体の使い方に偏りが出るからで。でも最後には、人間としての機能をちゃんと働かせることがパフォーマンスにつながるというのに気がつくことができました。一般の生活でも体に偏りが出てくる部分はあるので、それをリセットしてコンディショニングするのが運動ですよね。だから、子供たちにはスケートをやって欲しいと思うだけではなくて、生まれ持った体を心地よく使うというところに注目して欲しいです。体の豊かさは心の豊かさだと思うので、そこにアプローチできる何かのお手伝いができればいいと思っています」

 競技スポーツは"究極"を追い求めている。その限界値を示せるのは魅力ではあるが、それを観ている人に押しつけるものではないとも思った。「なんだかわからないけど震えたとか心が動いたなど」受け取る人の反応そのものがスポーツの良さだと語る。

「選手は100%表現する以外は何もできないが、観ている人たちがそれぞれの感性で何かを感じてくれれば、選手にとっては最高のギフトだと思う」

 だが、小平も日本代表という言葉を背負いすぎた時もあった。それが1回目のバンクーバー五輪と2回目のソチ五輪だった。そんな経験をとおし、「小平奈緒という人間がどう生きているか」を感じ取って欲しいと思うようにもなった。

「平昌五輪が終わってからは、人目が気になって外に出られなくなったんです。どこに行って何をするにも、人に期待されるように振る舞わなければいけないという感覚で......。外に行くと写真をパシャパシャ撮られたり、動画を撮られたりするのが平昌のあとは多くて、どこに行っても監視カメラがあるみたいで、『このまま生きていくのは苦しいだろうな』と思っていました。

 でもちょうどその頃に、台風19号の豪雨災害で(長野の)リンゴ農家が被害を受けて。それを見た時に『何か思うのでなくて、まずは動かなきゃ』と思い、ボランティアとしてひとりで飛び込んでいったんです。そうしたら地域の人たちは壁も作らず受け入れてくれるし、特別扱いもしないで普通に接してくれたんです。それで『私も地域の中のひとりとして生きていいんだ』と思ったんです。だから今はむしろ、いろんな人と接していこうと思ってやっています。普通の町の個人でやっている本屋さんとか、小さな洋服屋さんとかへ行って。そういうところからコミュニティを広げていけばいいかなと思っているんです」

【これから取り組んでいきたいこと】

 引退後も相澤病院に所属しながら、母校の信州大学では特任教授として講座も担当することになった。これからは、スポーツに関わらず、人として生きる豊かさを追求することに関わっていきたいとも言う。

「学び場みたいなものを作りたいですね。それはスポーツに限らずアートでもいいし。おかげさまでいろんな人脈を持つことができたので、それこそ町の本屋さんでトークショーのイベントをやったり。それも、有名な人を招いてトークをするよりは、地域の人たちと対話するのを聞いてもらうというような空間を作ってもいいのかなと。ひとつの空間から町が作られていくというイメージを持っています。大きなところから統制するのではなく、小さな空間から町の人の豊かさが派生していくようなイメージを持っていて、そこでまたそういう活動を応援してくれるような人たちとつながれるといいかなと思っている段階です。

 人間と人間が関わることでしか生まれないエネルギーみたいなものもあると思うので、テレビに出るとか、何かの役職に就くというのではなく、フィールドで動き回りたいというのが自分の将来の夢でもあるし。タイムリーな出会いが人の人生を変えたり、いい方向に動くこともあると思うので、私が何かを伝えたいというより、人の中で生きていきたいなと思っています」

 スケーター・小平奈緒にはひと区切りをつけたが、そこで得た小平奈緒の存在価値を生かしていきたいとも話す。

「人と人をつなぐ接着剤のようなイメージですね。奈緒という名前には大きな木の下に人を集めるという意味があるらしくて、しかも"奈"というのは唐梨という意味でリンゴらしいんです。それに"緒"は鼻緒の緒だから、つなぐ役割があるのかなと思って。自分がこうなって欲しいというよりは、人にとってそれぞれがいいと思う未来に進めるように動かせる存在であればいいなと思います」

 小平が信州大へ進んだのは、結城匡啓コーチに指導をしてもらいたかったことのほかに、教員になりたいという希望があったからだ。学生時代はそれをいつも口にしていた。だが今は、「職業を仕事にするのではなく、生き方を仕事にしていくというのが一番しっくりくるなと思っているんです。そうしたらどんなフィールドでも迷うことはないなと思って。だから大学でも、大学の先生という仕事で働くのではなく、大学というフィールドで生き方を表現していくというところに、今は考え方をシフトしています」と変化している。

 スピードスケートを突き詰めて得たものを、次のステージでまた自分らしい花として咲かせたい。小平のそんな挑戦が、ここから始まる。

Profile
小平奈緒(こだいら なお)
1986年5月26日生まれ。長野県出身。
3歳からスケートを始め、中学2年で全日本ジュニアの500mで優勝すると、高校でも500m、1000mでインターハイ2冠達成など力をつけていった。信州大学進学以降は、結城匡啓コーチに師事し、バンクーバー五輪ではチームパシュートで銀メダル、平昌五輪では、500mで金メダル、1000mで銀メダルを獲得し、日本だけに留まらず女子スピードスケート界を代表する選手となった。北京五輪後の2022年10月の引退レースとなった全日本の500mでは、見事優勝を飾っている。