2021年の東京五輪では20kmで銀、銅を獲得し、昨年の世界選手権では20kmと35kmの2種目で金1、銀2を獲得し、世界でメダル獲得の常連となりつつある男子競歩。今年8月にハンガリー・ブダペストで開催される世界選手権に向けて、代表選考と…

 2021年の東京五輪では20kmで銀、銅を獲得し、昨年の世界選手権では20kmと35kmの2種目で金1、銀2を獲得し、世界でメダル獲得の常連となりつつある男子競歩。今年8月にハンガリー・ブダペストで開催される世界選手権に向けて、代表選考となる日本選手権20km競歩が行なわれた。



途中までふたりで競り合っていた池田向希と高橋英輝

 東京五輪と世界選手権でともに銀メダルを獲得している池田向希(旭化成)が、初の日本選手権王者となった。

 世界選手権連覇中の山西利和(愛知製鋼)は、前回の世界選手権優勝のワイルドカードですでに代表が内定している状況で残り3枠の選考。条件は、この大会で最上位、なおかつ日本陸連が設定する派遣標準記録1時間19分30秒を突破すれば即内定だったが、池田の場合は世界選手権2位の条件も加味され、参加標準記録1時間20分10秒を突破すれば代表内定だった。

 気象条件は厳しく、天候は雨で秒速2m前後の風が吹いていた。1kmの折り返しコースのため、選手たちはスタートからの500mは向かい風で、折り返し後の500mは追い風に対応しなければいけない難しい条件だった。

 世界王者の山西は出場しないなか、レースは2周目から1km3分50秒台中盤のペースで落ち着いていた。4kmを過ぎてから、池田が1時間16分台を狙える3分49秒ペースにあげる仕掛けを見せ、5km過ぎからは昨年までこの大会を6回制している高橋英輝(富士通)とのふたりの争いに持ち込んだ。

「序盤は落ち着いていって、後半に上げるレースプランでした。でも、1月から2月にかけて延岡の旭化成で練習をしていた時の強風が吹くコースに比べると、全然たいしたことはない風だと思って......。歩き出してから風を利用しようという戦略に変えて、向かい風のところであえて前に出てペースアップをするという、インターバルのような感覚を繰り返していたらドンドン集団も絞れていました。消耗戦に持ち込んだのが、うまくいったと思います」

 高橋とふたりで競り合いながら記録を目指す展開となったが、8kmを過ぎてからは3分50秒台後半のペースに落ち着いた。

「途中4分ペースに行く場面もあったので、もう1回切り替えて最後は勝ちきろうとするレースができてよかった」という池田は、16kmを過ぎてからペースを3分台に戻し、高橋を引き離すとラスト1kmを3分53秒まで上げて、1時間18分36秒でゴール。条件がよければ、昨年の世界トップ5に入る1時間17分台の可能性も感じさせて力を見せつけた。

「終盤の数周回を3分50秒くらいまで上げきれなかったというのはまだまだ自分の実力不足だと思いますが、1時間19分30秒を出せばいい条件のなかで、18分台のタイムでまとめられたのは収穫だと思います。

 この冬期は、ペースを上げたり下げたりするなかで、体の使い分けの練習に取り組んで、歩型の改良にも取り組んできました。今回は20kmを通してジャッジからは注意や警告のパドルが1枚も上がらなかったので、その部分でも成果が出ていることを確認できました」

 しかし、初めて日本選手権は優勝したものの、出場しなかった世界王者・山西の存在はまだ重いものがある。

「初優勝はうれしいですが、山西さんに勝って初めてのうれしさもあるのかなと思う」(池田)

前日会見でも山西の不在について質問され、「山西さんはレース展開のバリエーションが豊富で、嫌らしいところで仕掛けたり、周りを見て展開を変えてくるので戦う上ではやっかいな相手です」とも話していた。今回はレース中も、「仮想・山西」は頭のなかには浮かべず「8月の世界選手権で山西さんと戦う権利を獲得する」ということだけを心のなかに秘めて戦っていた。

 高校時代はともに静岡の同学年という、U20世界選手権に出場した川野将虎(旭化成・昨年の世界選手権35km2位)の陰に隠れるような存在で国体にも出場できず、3年生になって、初めて出場したインターハイも5位だった池田。高校時代最後のレースだった全日本選抜競歩能美大会では1時間22分43秒の好記録で7位になったが、東洋大入学時はマネージャー兼務という立場だった。

 それでも18年5月の世界チーム競歩選手権20kmでは、1時間21分13秒で優勝し、日本団体優勝にも貢献と頭角を現した。そして19年の日本選手権では高橋に1秒差で敗れて2位だったが、3月の全日本選抜では、同年世界ランキング3位(1時間17分25秒)を出し、初代表だった世界選手権ドーハ大会では、高気温と高湿度の悪条件の中でも6位入賞を果たした。

 その世界選手権で優勝した山西の壁は、その後もなかなか破れず、20年と21年の日本選手権は1時間17分台を安定して出すようになってきた山西に対し、1分以上の差をつけられて2位と3位という結果だった。しかし、21年東京五輪では、山西に先着して2位という結果を出したのだ。

 その東京五輪で、指導する東洋大の酒井瑞穂コーチは「自分が決めたことをきっちりやれる真面目な性格で、同じことを何年も続けられるタイプ。ドーハの世界選手権はメダルに届かず悔しがっていたが、ああいう厳しい環境にも対応できたことが自信にもなったのだと思う」と話していた。

 だが、それで壁を突破できたわけではなかった。22年7月の世界選手権では、最初の3kmはひとり飛び出して後続の様子をうかがい、17km過ぎからは山西とふたりのマッチレースに持ち込んだ。そして3分50秒にまでペースが上がるなか、18km過ぎには一度前に出て仕掛けたもののしっかりつかれ、最終周回を3分41秒でカバーした山西がラスト250mで池田を突き放して7秒差で優勝という結果になった。

「山西さんがああいうレースをするのはわかっていたので、その差を10秒以内に抑えつつ平常心で自分のレースをしてジワジワ追いつくという作戦でした。ラスト3kmで山西さんが上げた時も対応できたので、ラスト2kmから『ここはチャンスかな』と思って仕掛けたが、そこで行ききれなかったのが敗因。うれしさ半分、悔しさ半分です」と話していた。

 対等に勝負はできたが、敗れた悔しさは大きかった。

 池田の強みは、他の選手より足の回転が速い上に、足のさばきが柔軟で反則を取られにくい動きができることだ。そんな彼が打倒・山西のためにこの冬に取り組んだのが、歩型のさらなる改善だった。今回の日本選手権でも高橋が16km過ぎから池田から離れた理由を、「注意のパドルが4回出ていたので、少し離れて歩きたいと思っていた」と語っていたように、一般的に選手は歩型に不安が出ると勝負できなくなるからだ。

 その成果を「注意もゼロ」という結果で確認した池田。今後は8月の山西との対決へ受けて勝つための戦略をいろいろ考え、自分のものにすることを課題にして取り組んでいくための第一段階のステップを、この日本選手権で踏めた。