元男子バレー日本代表・福澤達哉 インタビュー前編春高バレー2023総括&注目選手【勝てるチームのトレンドの変化】――今年の春高バレーを振り返っていかがですか?福澤:大会全体として、年々スキルが上がっているのを感じます。リバウンドを取る技術、…

元男子バレー日本代表・福澤達哉 インタビュー前編

春高バレー2023総括&注目選手

【勝てるチームのトレンドの変化】

――今年の春高バレーを振り返っていかがですか?

福澤:大会全体として、年々スキルが上がっているのを感じます。リバウンドを取る技術、ネット際のボールの処理など、日本代表と同じようなプレーをやり始めていますね。スパイクレシーブを上げて、セカンドタッチで相手コートに打つといった派手なプレーも含めて、指導者や選手自身も世界のトレンドを取り入れていっているんだと思います。

 いわゆる"勝てるチーム"のトレンドも変わってきましたね。僕が高校生だった頃は、大エースがいるチームが勝つ印象がありました。そこから一時期は、時間差やスピードがある攻撃を主にする高校が勝つようになった。そして近年は、エースがしっかりしているだけでなく、組織力も備えたチームが勝つ。求められるチーム力が、徐々に高度なものになっているのを感じます。



207cmのミドルブロッカーとして注目された、東山高校の麻野堅斗(中央)

――福澤さんは、春高が3月開催だった頃に洛南高校(京都)で活躍しました。当時のことも思い出しますか?

福澤:僕は春高で活躍した記憶がないんですけどね(笑)。2003年に1年生で出場した時は、初戦の大村工業(長崎)相手に何もできずに終わって、翌年は優勝した佐世保南(長崎)に負けた。佐世保南はミドルを主体に攻めてきたんですが、当時は「ミドル主体に攻められたらお手上げ」のような感じでした。エース勝負から、コンビネーションバレーへと春高のトレンドが変わるきっかけだったようにも思います。

 そこで僕らも「力押しじゃ勝てない。対策を練らないと上にはいけない」と気づいて、チームでコミットブロック(相手のクイック攻撃にヤマを張り、アタッカーと同じタイミングで跳ぶブロック)を練習したりするようになりました。その頃は高校生最後の大会が3年時のインターハイだったので、ベスト8以上にいくために変化が必要だったんです。

――そうして、最後のインターハイは主将としてチームを優勝に導いたわけですね。ちなみに、2年時の春高とインターハイでは、長くパナソニックパンサーズや日本代表でも共に活躍した清水邦広選手擁する福井工大附属高校(福井)との対戦もありましたね。

福澤:2年生の時の春高で福井工大はシードでしたが、清水は連日体調を崩していたそうなんです。2回戦で対戦し、洛南が勝ったのですが、清水は不完全燃焼だったでしょう。洛南としては運がよかったところもありましたね。最後のインターハイでは準々決勝で対決してフルセットの接戦となり、3セット目は福井工大に先に20点を取られてリードされたところから、何とか逆転で勝利しました。

【0-2と追い込まれた駿台学園が作った「転換点」】

――福澤さんは今年の春高で解説を務めましたが、特に激闘になった、駿台学園高校(東京)と鎮西高校(熊本)の決勝はいかがでしたか?

福澤:まさに先ほど話したように、エースが一枚いるだけじゃ勝てない時代になったことを象徴する試合でした。駿台学園がセットカウント0-2のビハインドから逆転しての優勝。鎮西は、前回大会の日本航空高校(山梨)との決勝も2セットを先に取りながら逆転負けしていますが、結果は同じでも、そこまでの展開は違いましたね。

――どんなところが違ったんでしょうか。

福澤:昨年に優勝した日本航空は非常にチーム力が高く、つなぎの部分がすごくよかった。追い込まれても焦らず我慢して、自分たちのバレーボールをすることを徹底していました。そのうちに鎮西が疲弊していって、流れを掴んでいった。鎮西のエースである舛本颯真選手(182cm)も2年生でしたからね。

 日本航空はやることを変えませんでしたが、今年の駿台学園は試合中に戦略を変えたんです。3セット目に1年生の川野琢磨選手(192cm)を入れたのをはじめ、調子がよかった舛本選手に対しては、リベロ的な役割も果たしていた亀岡聖成選手(2年/180cm)のポジショニングもよくなり、うまくレシーブできるようになった。そこは(VリーグのNECレッドロケッツでアナリストを務めていた)梅川大介監督のさすがの采配でしたね。

――戦術で勝利を手繰り寄せたんですね。

福澤:前日に行なわれた、東山高校(京都)と鎮西の準決勝では、東山の尾藤大輝選手(2年/187cm)のライトからのスパイクがよく決まっていました。駿台学園もそれを参考にしたのか、最初はライトを多用していましたね。でも、早々にその攻撃は封じられてしまって、鎮西の展開になっていった。でも、3セット目から投入された1年生の川野選手が、交代前の選手よりも高さがあり、かつ速いテンポでライトから打つようになった。

 試合には「転換点」がありますが、昨年の日本航空は流れ込んできたものを掴んだのに対し、今年の駿台学園は自分たちから転換点を作りにいった。僕も解説をしながら、「代表レベルの戦術論を話さないといけないな」と思っていました。先ほど、エースがいて組織力があるチームが勝つようになってきたと話しましたが、さらにデータとそれに基づいた戦術面も高めないといけないという、また新たなステージに突入したように感じました。

【2023年大会で注目した選手】

――今大会で、福澤さんが注目した選手はいますか?

福澤:スケール的には、東山の麻野堅斗選手(3年/207cm)ですね。左利きの長身ミドルブロッカーで、昨年に比べて機動力も上がっていました。セッターも、それを生かすためにⅮクイック(セッターの背中側に長く速いトスを上げる速攻)を多用していた。東山でいうと、2年生エースの尾藤選手も完成度が高かったです。

 先ほど名前を挙げた駿台学園の亀岡選手も、「うまいな」と何度も思いました。彼はバランサーのような存在で、パスができてリバウンドも取れて、ブロックアウトもしっかり取れる。アタッカーとしては少し身長は低いかもしれませんが、スパイクの打ち分けもできていましたし、今の日本代表のスタイルのようなバレーをやっていましたね。

――セッターはいかがでしたか?

福澤:駿台学園の吉田竜也選手(3年/170cm)ですね。彼はスキル面も伸びしろがありますが、セッターの"マインド"のような部分が特に優れているように感じました。おそらく梅川監督の指導もあって、常に組み立てを意識しているんでしょう。相手のブロッカーの位置をしっかり把握していて、エースを使うポイントもよかったです。試合をトータルで見ても非常に高度な組み立てをしていて、エースを効果的に使うための布石も上手に打っていました。

 あと、これは全体的な印象として、私たちが高校生の頃と圧倒的に違うのはパイプ(センターからの速いバックアタック)が当たり前になっているところ。以前は、バックアタックは単にエースに打たせるための攻撃でしかなかったのが、コンビネーションの中で使うようになっています。東山の松永理生監督もよく口にしている、「立体的にどれだけ攻撃できるか」という点を高校生の時点で意識してやっているところがすごい。攻撃の選択肢がひとつ増えると、それだけセッターも頭を使わないといけませんから、そういった点も総じて進化してきているんでしょうね。

【日本代表選手で重視されるようになった「器用さ」】

――日本代表入り、というところまで期待ができる選手はいますか?

福澤:やはりスケールとしては東山の麻野選手でしょうか。フィジカルはトレーニングで強化して、精神面でもチームの中心になれるような、そういうミドルになってくれたら面白いですね。あと、今大会は全体的に見ても2年生がすごくよかったので、来年までにどこまで成長するか楽しみです。

――近年では、東山で春高を制した髙橋藍選手(イタリア/パッラヴォーロ・パドヴァ)も即代表入りして活躍しました。そういった選手が今後も出てくる可能性はありますか?

福澤:スキルだけでいえば、今の高校生たちはネット際の処理など細かいプレーも当たり前のようにやっているので、多くの選手にチャンスがあると思います。アウトサイドヒッターの選手に限って言うと、特に重要なのはレシーブ力。髙橋藍選手も、レセプションが安定していたから日本代表でも即戦力として活躍できた。そういった器用さも重視されるようになっていると思います。

――今後も選手たちの成長から目が離せませんね。

福澤:そうですね。今年の春高で解説をする際も、選手たちのコート上での立ち振る舞いやスキルなどをしっかり伝えることを意識しました。さらに、選手だけでなく、日本バレーボール界の進化、競技の複雑さなども伝えられるようにしたいです。春高ではどうしても有望選手にフォーカスが当たりがちですが、先ほども話したように戦術面もかなり向上しています。見ている方に「高校生がこんなことまで考えてやっているのか。すごい!」と注目してもらえるように、解説者としてバレーボールの魅力を伝えていきたいと思っています。

(日本代表について:「ブランジャパン」主将・石川祐希の変化と、進化のカギを握るミドルブロッカー陣>>)

【プロフィール】
福澤達哉(ふくざわ・たつや)

1986年7月1日生まれ。京都府京都市出身。洛南高校時代に春高バレーに2度出場、インターハイでは3年時に優勝を果たした。卒業後は中央大学に進学し、1年時の2005年に初めて日本代表に選出。ワールドリーグで代表デビューを果たすと、2008年には清水邦広と共に最年少で北京五輪出場を果たす。大学卒業後はパナソニックパンサーズに入団。ブラジルやフランスのリーグにも挑戦しながら、長くパナソニックの主力としてプレーした。2021年8月に現役を引退して以降は、解説者など活躍の場を広げている。