佐々木信也インタビュー(中編)『プロ野球ニュース』のキャスターを務めた佐々木信也氏(右)と土居まさる氏(写真は本人提供)【解説者からキャスターへ】── 解説者として軌道に乗っていた1976(昭和51)年、佐々木さんが42歳の時に『プロ野球ニ…

佐々木信也インタビュー(中編)



『プロ野球ニュース』のキャスターを務めた佐々木信也氏(右)と土居まさる氏(写真は本人提供)

【解説者からキャスターへ】

── 解説者として軌道に乗っていた1976(昭和51)年、佐々木さんが42歳の時に『プロ野球ニュース』がスタートします。ここから12年にわたって、月曜から金曜まで、平日夜のお茶の間の顔となります。この番組スタート当時の心境を教えてください。

佐々木 26歳で現役を引退してから、NETテレビ(現・テレビ朝日)、日本テレビなどで解説の仕事をしてきました。「解説者」というのは、車で言えば「助手席」なんです。でも、私はいつの頃からか「運転席に乗って、自分の思うような運転をしたいな」と考えていました。「キャスター」というのは、それまで自分がやったことのない仕事で、「ようやく自分で運転できるんだ」とうれしかったことを覚えています。

── 番組スタート時は「月〜金曜・佐々木信也、土〜日曜・土居まさる」というキャスティングでしたね。

佐々木 番組開始前にフジテレビに行って契約を交わしたんですけど、契約書には「1回10万円の出演料」と書かれていました。「毎日10万円ももらえるのか」と喜んでいたら、それは土居まさるくんの契約書で、私の契約書には「1回5万円」と書かれていました。それで、「ちょっと待ってください。野球の専門家である私が5万で、土居くんが10万円なのは納得がいかない」ということで、私も10万円になりました(笑)。

── のちにフジテレビを代表する名物番組となりましたが、佐々木さんご自身はいつ頃から手応えを感じ始めていたのですか?

佐々木 最初の年の夏場にはすでに「大変な仕事を引き受けたな」という思いはありましたね。視聴者からの反響はもちろんだけど、実際に現場に行って取材をしてみると、監督、コーチ、そして選手たちがみんなこの番組を見ていることを知りました。選手もすごく協力的でますますヤル気になりましたね。

── 当時、この時間帯では日本テレビの『11PM』が視聴率トップをずっと独占していました。ジワジワと追いつめていく感じはあったのですか?

佐々木 ありましたね。視聴率は常時6〜8パーセントを叩き出し、週末には10パーセントを超えることもありました。さらに、「CMを打ちたい」というスポンサーが順番待ちをしていましたからね。うれしかったのは、当時日本テレビ系列で『11PM』を放送していた高知放送、山口放送がフジテレビの『プロ野球ニュース』を放送してくれるようになったこと。あれは本当にうれしかったですね。

【因縁の西本幸雄と共演】

── この番組の魅力は、全6試合すべてを平等に取り扱い、現地で取材をした個性豊かな解説者がその日のポイントを深掘りする点にありました。

佐々木 この番組にはいくつかの「決め事」がありました。たとえば、「12球団を満遍なく取り上げること」「通常の野球中継と同様に解説者を必ずつけること」「最初に試合結果を明かさないこと」「打球音や歓声など現場の音を生かすこと」などです。そのためにはフジテレビの誇るFNS系列の協力体制が不可欠になりますが、関西テレビ、東海テレビなど、各局がいずれも、この番組に誇りをもって取り組んでくれたことが、成功の大きな要因でした。

── この番組の魅力のひとつは「個性豊かな解説陣」にもありました。関根潤三さん、別所毅彦さん、土橋正幸さん、豊田泰光さんなど、それぞれの個性が際立っていました。

佐々木 関根さんの解説は味わい深かったですよね。豊田はビシッと自分の意見を言えるタイプで、彼の発言は目を見張るものがありました。別所さんも土橋も、それぞれ自分らしさを持っていて、解説陣の競演も番組の魅力のひとつでした。

── そして、この番組では「因縁の」西本幸雄さんと共演することになりました。前編で触れたように、佐々木さんを自由契約とすることを決めたのが「西本監督」でした。

佐々木 まさか、そんなことになるとは思っていなかったですよね(笑)。この番組が始まる以前、大阪のラジオに出た時に「誰かひとりゲストを呼んでいいですよ」と言われたので、私は西本さんを指名しました。そして、3時間半の生放送中ずっと、「どうして私をクビにしたんですか?」って噛みついたんです。西本さんは困っていたよね(笑)。

── 戦力外通告の理由は「クビにしても食いっぱぐれがなさそうだから」ということだったんですよね(笑)。

佐々木 西本さんが言うには、「当時の大毎オリオンズには八田正、須藤豊、平井嘉明、小森光生、そして佐々木信也と5人も力の拮抗した内野手がいたから」とのことでした。それで、「食いっぱぐれのなさそうなキミを指名した」ということだったけど、「そんなバカな話はないでしょう」って食い下がったら、西本さんも困った顔をしていましたね。『プロ野球ニュース』が始まる時には、西本さんへのわだかまりは氷解していましたけどね。

【12年間のキャスター生活】

── 『プロ野球ニュース』と言えば、週末キャスターを務めていたみのもんたさんによる「珍プレー好プレー」も忘れられません。

佐々木 あの当時、アメリカから『This Week in Baseball』という、メジャーリーグのダイジェスト映像が送られてきて、それを定期的に放送していたんです。雨で試合が中止になった日や、試合のない月曜日に流していたんだけど、映像を流している間に、みのもんたが勝手にアテレコを始めたら、「それ、面白いよ」ということになって、日本版の「珍プレー好プレー」が、偶然誕生したんです(笑)。

── この番組のキャスターを12年間も務め、1988年に番組を勇退されました。『プロ野球ニュース』に対する思い入れはとても強いのではないですか?

佐々木 この番組は私の代表作です。雨の日も、風の日も、来る日も来る日も関東近郊の球場に足を運んで取材をして、夜は新宿河田町のフジテレビに戻って生放送に臨みました。野球関係者からも、一般視聴者からも愛された幸せな番組だったと思いますね。

── 88年の佐々木さん退陣後は、局アナである野崎昌一さんが平日、中井美穂さんが週末の司会を務めるなど、番組も大きくリニューアルされました。

佐々木 私としては、体力的にも問題はなかったし、頭の回転も決して衰えていないつもりだったけど、当時のプロデューサーとしては、「そろそろリニューアルをしたい」ということだったようです。もっともっと番組を続けたかったけれど、とても残念でした。

── その後、番組は日韓ワールドカップ前年となる2001年3月31日まで、全8846回放送され、番組内で伝えたプロ野球公式戦は1万9662試合でした。あらためてすごい番組でしたね。

佐々木 現在もCSで『プロ野球ニュース』は続いていますけど、地上波時代とは全然違うつくりの番組になっていますよね。熱意あふれる優秀なスタッフたち、別所さん、西本さん、関根さんなど、個性的な豪華解説陣に囲まれて、本当に楽しい時間を過ごしました。これまで仕事をしてきたなかで、『プロ野球ニュース』時代はいちばん充実していた時間で、私の誇りです。

後編につづく>>

佐々木信也(ささき・しんや)/1933年10月12日、東京都生まれ。湘南高では1年時に夏の甲子園で全国制覇。慶應大では内野手として活躍し、4年で主将を務める。56年に高橋ユニオンズへ入団。1年目から180安打を放ち、ベストナインに選出された。その後チームは大映ユニオンズ、大毎オリオンズと変わるも、59年限りで戦力外となり現役引退。26歳で野球解説者に転身し、76年からスタートしたフジテレビの『プロ野球ニュース』の初代メインキャスターとして人気を博した。