「赤ちゃんを連れてテニス観戦をしよう」、そう考えたのはごく自然なことだった。 元プロテニスプレーヤーである私にとってテニス会場は慣れ親しんだ場所。現役中は選手として試合を披露する場であり、引退後は大会運営側としてコートの外から運営に関わって…

「赤ちゃんを連れてテニス観戦をしよう」、そう考えたのはごく自然なことだった。

元プロテニスプレーヤーである私にとってテニス会場は慣れ親しんだ場所。現役中は選手として試合を披露する場であり、引退後は大会運営側としてコートの外から運営に関わっている。

◆元プロ・テニス・プレーヤー、日本テニス協会 広報委員 久見香奈恵 記事一覧

■不安いっぱいから観戦スタート

スタッフが寄り添ってくれたNCAAチャンピオンシップス会場で 写真提供:久見香奈恵

そんな私が結婚を機に子どもを産み、偶然にも米国で暮らす機会がやってきた。スポーツビジネス大国であり、エンターテイメント性が強いこの国で「テニス会場」はどのような存在なのか…。そんな興味から気が向くまま、走り出せるようになった1歳5カ月の娘を連れ、観客として大会のゲートをくぐった。

不安は山ほどあった。

これまでの人生で多くの時間を過ごしてきた場所でも、観客として子どもを連れていく機会はなかったからだ。先ずは自身と娘のチケットを買うことから戸惑い、何をもっていけば観戦がしやすくうまく時間を過ごせるかなど知識や知恵もない。そんな状態から半年のあいだに6大会を観戦し、今では家族で心置きなく楽しんでいる。そして子どもが応援の仕方や会場での過ごし方などスポーツを見る側の楽しみを無意識に吸い込んだ。

米テニスの総本山・全米オープンの会場アーサー・アッシュ・スタジアムからの景色 写真提供:久見香奈恵

何よりもその不安をひとつずつ消化してくれたのは、各大会のサポート体制だ。大会関係者は常に「あら、かわいい赤ちゃんですね! 何かお手伝いできることはありますか」と声をかけてくれ、観戦ができるように誘導してくれる。時には娘を抱っこしてコート脇から試合を覗いていると、自由席の人たちを動かし、「ここへどうぞ」と座らせてくれるスタッフまでいた。

それは大会としてのサービス以前に、常に社会が子どもへ手を差し伸べる普遍的価値が根付いていることが重要なポイントではないだろうか。これは普段の生活から感じていることであり、ベビーカーを持って移動している時など必ずと言っていいほど誰かが手を差し伸べてくれる。

日本では外出時に赤ちゃんが泣きだしたり、荷物が多いだけで冷ややかな視線を受けて窮屈に感じることがあったが、米国では赤ちゃんを連れている人こそ優先されることが多く、その社会の在り方に私は何度も救われてきた。それは、たとえ全米オープンのセンターコートで娘が泣きだし大慌てした時も、周りにいる観客からの「焦らずゆっくり外に出ればいいよ」「大丈夫よ、ママ」という声に繋がっているように感じている。

■親子を後押ししてくれる米国の開けた環境

女子ナンバー1、イガ・シフィオンテクの練習も見学 写真提供:久見香奈恵

初観戦で訪れたNCAAチャンピオンシップスでは、大学の女性コーチは子どもを帯同させながら働けることを知った。大会関係者や選手も、その環境に慣れていることから1歳半ばの娘が会場に長く滞在しても嫌な思いをすることは皆無。最初は大事な試合に魔が差さないかと娘の動向に冷や汗をかいていたが、会う人たちが譲ってくれ「元気で良いね」と愛でてくれることに安心感が増していったのだ。

また、各大会関係者との会話は思い出深い。

娘が吸い込まれていくように練習コートへ入っていった時、私は怒られてしまうと思い「あなたは選手じゃないから入れないよ」と呟いた。すると傍にいたある大学コーチが「彼女はまだ選手じゃないだけ。もしかした数年後にはプレイヤーとして活躍しているかもしれないじゃない!これからが楽しみな子よ」と快く娘を受け入れてくれたことがあった。

さらにある時は、爽快に会場を走り回る娘に対して私が面倒を見切れずに打ちのめされていると、スタッフの方が「あなたの娘さんはここで1番若いファンですよ。来てくれてありがとう」と声をかけてくれる。私が子連れ観戦に挑戦していることを話すと「私たちは子どもたちに、もっと会場で試合を見てほしいから、あなたのチャレンジがとても嬉しい」と喜んでくれた。

時には試合を見るどころではなくなってしまう子連れ観戦にも、スタッフは「赤ちゃんやジュニアたちが、この会場で試合が見られなければ、いったいどこでプロのプレーを見るの? テレビだけになっちゃうじゃない」と続けてくれ、私たちを特別にアップグレードされた席に案内してくれることもあった。

まさに私にとっては驚きの連続。ここまでサポートしてもらい観戦ができるとは想像もしていなかったからだ。彼女たちにとって常に子どもは未来のスターであり、垣間見える競技普及に対する意識も日本より上手(うわて)に感じてしまう。まさしくこの環境こそが、継続的にスターを輩出する米国スポーツの地盤の強さだと確信するのだった。

■子連れ観戦の工夫と楽しかったファン同士の交流

シールブックは親子観戦の必需品!? 写真提供:久見香奈恵

多くの大会関係者の言葉に勇気づけられ、NCAAチャンピオンシップスからITFシリーズとATPチャレンジャー大会。そしてアトランタ・オープン(ATP250)にウェスト&サザン・オープン(ATP/WTA1000)を観戦。8月の終わりにはグランドスラムの全米オープンにも訪れた。その頃には子連れ観戦のペースを掴み始め、荷物も厳選できるようになった。先ずはお昼寝用の抱っこ紐に、赤ちゃん用の飲食物。お菓子は時間をかけて食べられるミルクボーロやレーズンを持参した。

夏場は汗をかくので着替えを1セット、パウチなど飲める栄養補給ゼリーが必須だ。その他には、本人が安心できるお気に入りの人形と音のならない玩具など、特にシールブックは大活躍する。また、どうしても落ち着けない時のため携帯電話にキッズ番組ダウンロードしておくと気分転換に役立った。

大きなツアー大会になると荷物のサイズ制限があり、持ち込める手荷物も1つに絞られる。子連れの場合は、その荷物に加えおむつポーチや飲食物は持ち込み可能。あらかじめフードコートや休憩エリアの情報を掴むことで安心につながりやすかった。

仮に試合が見られない時間に突入しても、休憩エリアでの交流が一番楽しいと言っていい。娘の存在をきっかけにコミュニケーションを取ることができていた私たちは、米国のテニスファンとの交流が楽しかったのだ。

「私も昔は抱っこして連れてきていたの。早く寝てほしいって思ったりしない?」と笑い話を飛ばしたり、同じように家族で来ている子どもたちと遊ぶ姿は非常に微笑ましい。私が話した限り、多くの人が子連れ観戦の経験があり昔を思い出すと言ってくれる。そのやり取りがまた心地よさを煽り、私がテニス会場へと足を運ぶ1つの理由になった。

■直接、選手たちに触れ合うことで子ども心に変化が生まれる

写真提供:久見香奈恵

いつのまにか娘は、「ポンポン(テニス)行く?」と聞くと、喜んで靴を履きだすほどになった。毎回、旅をするごとに新しいことを吸収し、外出時のマナーを育てるにも絶好の機会だった。今ではサインをもらうこともお手の物。慣れてきたころには、自分自身でボールにペン先を走らせサインの真似を始めたのだ。それには1歳でも、これほどまでに見たものへの吸収の速さがあることに驚き感心したものである。

私たちは、この期間に受けた米国テニスの恩恵を忘れることはないだろう。日本でもこんな環境が溢れてほしい。そして観戦経験からスポーツの価値が子どもたちの人生に編み込まれることを願っている。

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著者プロフィール

久見香奈恵●元プロ・テニス・プレーヤー、日本テニス協会 広報委員

1987年京都府生まれ。10歳の時からテニスを始め、13歳でRSK全国選抜ジュニアテニス大会で全国初優勝を果たし、ワールドジュニア日本代表U14に選出される。園田学園高等学校を卒業後、2005年にプロ入り。国内外のプロツアーでITFシングルス3勝、ダブルス10勝、WTAダブルス1勝のタイトルを持つ。2015年には全日本選手権ダブルスで優勝し国内タイトルを獲得。2017年に現役を引退し、現在はテニス普及活動に尽力。22年よりアメリカ在住、国外から世界のテニス動向を届ける。