佐藤有香インタビュー(前編) 1994年の世界フィギュアスケート選手権で初優勝を飾って、伊藤みどりさん以来日本人として2人目(当時)の世界女王の称号を手にした佐藤有香さんが、今年2022年10月の日本でのアイスショー(「スターズ・オン・アイ…

佐藤有香インタビュー(前編)

 1994年の世界フィギュアスケート選手権で初優勝を飾って、伊藤みどりさん以来日本人として2人目(当時)の世界女王の称号を手にした佐藤有香さんが、今年2022年10月の日本でのアイスショー(「スターズ・オン・アイス」)を最後に28年7カ月のプロスケーター活動に終止符を打った。

「プロ生活ができたのはみなさんに支えてもらったおかげだと感じましたし、日本のアイスショーに最後に出演できたことに感謝の気持ちでいっぱいです。赤いコスチュームで演技した今回のプログラムは『ザ・ストーリー』というナンバーで、ブランディ・カルリル(カーライル)という女性が書いた歌なんですけど、歌詞は彼女にとっては全く違った意味なのかもしれません。けど、何をお伝えしたいかというところでは、いまの私のストーリーをそのまま伝える感じだったので選曲しました。

 自分の大好きなスケートをそのまま演技にしてやっただけです。昔は何回転跳ぶとか、何をしなければいけないかというプライドもありましたが、ここ最近はいま自分が滑りたいことをそのまま演じて滑るということに徹してきたので、プレッシャーや雑念はなかったです」


「2022八戸公演」の佐藤有香さん

 提供/Stars on Ice

 有香さんは、両親(父の信夫さん、母の久美子さん)ともにフィギュアスケート選手でオリンピアンという銀盤のサラブレット。五輪初出場の92年アルベールビル大会7位、94年リレハンメル大会5位と2度の五輪を経験し、21歳で世界チャンピオンになった直後にプロに転向。1990年代に栄華を誇ったショービジネスの本場アメリカに向かい、あこがれの世界に飛び込んだ。

 当時、五輪や世界選手権のメダリストだけがメンバーに選ばれ、レベルの高いショーを追求して絶賛を浴びていた「スターズ・オン・アイス」の一員になるべく努力と経験を積み、晴れて本メンバー入り(デビュー)したのは挑戦から6年後の2000-2001シーズンだった。約29年間のプロ活動を振り返って有香さんはこう語る。

「私がちょうどプロに転向した時はプロの世界が非常に盛んで、北米という場所で、いろいろな経験をすることができました。プロ選手権に出場したり、テレビの単発のショーに出演したり、いつも憧れていた先輩プロたちとツアーやアイスショーで共演できたりして、学んだことは多かったと思います。また、これまで滑ってきた経験を生かして、ジェレミー・アボットという芸術家肌のトップスケーターをコーチとして指導できたこともユニークな経験だったと思います。

【これ以上ないくらいの満足感】

 これだけ多彩なことを体験することができたのは、これからも続けていきたいと思っているアイスショーの振り付けや演出をするにあたって、自分の実になったんじゃないか。いろいろなところからアイデアが出てくるのは、自分のいままでの経験が実っていると感じることがすごく多いです」

 ではなぜ50歳を前にプロ活動に一区切りをつけることになったのか。

「指導する立場になってこのくらいの年齢になってくると、体を鍛えるとか練習するという、自分自身のスケートの時間を優先することができない生活になってきていました。その中で、たとえば毎年8月には『フレンズ・オン・アイス』に呼んでいただいていますが、その準備期間が非常に長くなってしまいました。

 フィギュアスケートは美というものを要求されるスポーツですが、鍛えあげられているピークのアスリートと一緒に舞台を踏むなか、50歳になろうかという人間がコスチュームを着て人前で演技をすることはそんなにたやすいことではないのです(苦笑)。自分なりにもちろん努力はしますけど、やはり年齢にはかなわないなと思います。そういう意味でも、きれいでいられるうちに自分で思い出になるパフォーマンスをして、区切りをつけたいなという気持ちがあったかなと思います。

 そして、ファンやお世話になった方たちにパフォーマンスでご挨拶することが、自分にとって理想的で大事なんじゃないかなと感じました。春にやる予定だった『スターズ・オン・アイス』が延期になって秋の開催になったことも、私にとって一番いいタイミングとなり、その舞台で最後のパフォーマンスを終えることができました」

 日本でプロスケーター活動の有終の美を飾った数日後、96年から拠点にしているアメリカの自宅に戻って約1週間。有香さんにその時の思いを尋ねた。

「やはり人前で滑ることが好きで、音楽に合わせて滑ることも好きでした。45年ぐらいしてきたことに、今回、終止符を打つことで、(生活が)がらりと変わってしまうという恐怖心もあり、ロスを感じているというのが正直なところです。その一方で、みなさんにアナウンスして最後のショーを滑れたことはすごく自分でも納得いきましたし、これ以上ないというくらい満足感もあります。そして、今後の楽しみというか、また自分がどんなことにチャレンジしていけるかという期待感もあります」

【フィギュアスケートの一番いいところ】

 本場アメリカで活躍する日本人プロスケーターのパイオニア的存在として、その生き様や磨き上げられたスケーティング技術は、後輩スケーターのロールモデルにもなったと言っても過言ではない。スーッと軽やかで氷を削る音が一切しないほど滑らかなスケーティングは比類ないもので、その滑りには誰もが魅了された。唯一無二のスケーティングは特に目の肥えたフィギュアファンにはたまらなかったはずで、本物の実力がなければお声が掛からない厳しいショービジネスの世界で生き残ってきた証でもある。

「幼い時に見たアメリカのアイスショーにあこがれて、代表的なエンターテインメントの本場である北米で学びたいという気持ちで飛び込みました。90年代は人気があって盛んだったフィギュアスケートでしたが、2000年以降はショービジネスが廃れていきました。その一方で、日本ではいま、たくさんのアイスショーが開かれるようになってきています。それはたくさんのチャンピオンが出てきたことが理由だと思います。今後、アメリカで学んだものを持ち帰り、もっともっと進化できるような形で日本フィギュアスケート界に貢献できたらいいなというのが私のこれからの目標です。

 夢を見続けてきたアイスショーは私にとっては非常に大切なものなので、今後は違った形で振り付けとか演出というところで関わることができたらいいなと思います。日本でこのショーが見たい、また見に行きたいと言ってもらえるようなアイスショーを作っていきたいということが大きな夢であり目標です。

 そして、せっかくここまで頑張ってきたので、少しでもミドルエイジの方たちにも勇気や元気を与えられるような立場になれればいいなと思っています」

 最後に有香さんがフィギュアスケートで最も表現したいことが何かを教えてもらった。その答えに有香さんならではのアイスショーがどんなものになるかのヒントが垣間見えた気がした。

「フィギュアスケートの一番いいところである、スポーツでありながら芸術であるという、そのバランスがうまく取れたものをお見せしたい。特にこの時代、アマチュアの世界はテクニック的にすごくレベルが高いので、競技会ではリスクのあるジャンプや点を取るために必要なステップやスピンを入れて、ということになりますけど、フィギュアスケートで一番見てもらいたいのは、スピード感を出しながらスーッとカーブを滑るということです。そういうスケーティングを競技会ではやれないんですよ、点数にならないから。

 私は一番フィギュアスケートでいいなというところを見せられる場所がアイスショーだと思うので、もちろんジャンプも跳んでもらいたいんですが、フィギュアスケートならではの美を見せられればいいなと思っています」

 そう遠くない日に、有香さん演出の美しいスケーティングがメインとなるアイスショーが見られることを楽しみに待ちたい。
(つづく)

【プロフィール】
佐藤有香(さとう・ゆか)
1973年東京都生まれ。フィギュアスケート選手で種目は女子シングル。フィギュアスケートのコーチをしていた佐藤信夫、久美子夫妻の間に生まれ、趣味でスケートを始める。ジュニアの頃から実績を残し、1994年のリレハンメルオリンピックでは5位入賞、同年の世界選手権では優勝し、伊藤みどり以来、日本人二人目の世界女王となった。その後、プロに転向し、主としてアメリカを舞台に活動。日本国内外の選手のコーチや振付師として活躍中。2022年10月、プロスケーターとしての活動終了を発表した。