16年ぶりにインターハイで優勝した名門・柳川高校の強さの秘密に迫る7月28~30日の日程で高知県高知市において行われた今年のインターハイ(令和4年度全国高等学校総合体育大会テニス競技[高知インターハ…

16年ぶりにインターハイで優勝した
名門・柳川高校の強さの秘密に迫る

7月28~30日の日程で高知県高知市において行われた今年のインターハイ(令和4年度全国高等学校総合体育大会テニス競技[高知インターハイ])。そのうちシングルス2本+ダブルス1本の計3本で争う団体戦(男子)で優勝したのが名門・柳川高等学校(福岡)で、実に16年ぶりの優勝となった。

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振り返れば16年前の2006年は、柳川にとって第二の黄金期だった。最初の黄金期は1967~1980年にかけて14連覇した時で、その後連覇は何度か達成しているが3連覇したのは2004~2006年のみ。

2006年当時、柳川の絶対的エースは2年生の片山翔(現・伊予銀行)。長尾谷(大阪)との決勝戦は、シングルス2は柳川、ダブルスは長尾谷が取り、勝負の行方は片山と伊藤竜馬(現・橋本総業HD)のシングルス1にかかることとなった。そして第1セットを6-3で伊藤が、第2セットを7-5で片山が取って迎えた最終セット、6-3で制したのが片山だった。片山はその後に行われた個人戦シングルス決勝戦でも伊藤を破り優勝。ちなみに片山は翌年もシングルスで優勝し連覇を達成しているが、インターハイ個人戦シングルスで連覇したのは柳川OBの二本松一以来27年ぶりだった。

当時も今も柳川を率いる本田健児監督は、「あの時は片山というエースがいたことが柳川にとっては大きく、逆に相手にとっては“最後に片山が控えている”という目に見えないプレッシャーがあったと思います」と言う。その点では、今年春の全国選抜高校テニス大会個人戦で優勝した森田皐介がシングルス1に控えているのは好材料だったが、問題はあと1本をどこで取るか。実は柳川、インターハイ前に行われた全九州大会決勝戦で大分舞鶴(大分)に敗れており、その時はシングルス2とダブルスが敗れたことで、シングルス1森田のゲームは試合途中で打ち切りとなっていた。

団体戦でカギを握るのはダブルスだ。最初に入るダブルスで勝利すれば大きなアドバンテージとなるだけでなく(試合順はダブルス→シングルス1→シングルス2)、シングルスと違い2人で戦うダブルスで勝利すればチームはより勢いに乗ることができる。それは本田監督も百も承知だったが、苦心したのは固定ペアが決まらないこと。事実、全九州大会では1~2回戦は中島稀里琥/森岩新ペアで挑んだが、2回戦でこのペアが佐土原(宮崎)に敗れたことで、準決勝と決勝は中島/福原聡馬ペアに変更。しかし前述したように中島/福原ペアも決勝で大分舞鶴に敗退。これを受けて、本田監督の悩みはさらに深くなる。

本番のインターハイでチームを勢い付けた
中島稀里琥/福原聡馬ペア

結局、インターハイは中島/福原ペアで臨むことになるのだが、それが決まったのは本番直前。1週間前に柳川を出発し、まずは大分舞鶴との練習試合で試行錯誤するものの決断できず。その後、大分からフェリーで四国に渡り、愛媛で直前合宿をしていた佐土原と合流しての練習試合では中島/福原ペアが敗退。本来ダブルスは2人の相性が良いことが大切で、それが1+1=2以上の力になるのだが、どうも中島/福原ペアは相性が良くない。しかしその時の戦い方を見て、本田監督はこの2人でいくことを決断。「もう直感です。うまくいかなければその場で変えるしかないと思っていました」と決して前向きなものではなかった。

だが本番のインターハイでは、この中島/福原ペアがチームを勢い付けることになる。本田監督が「試合をする中で2人が固まってチームになっていきました」と言うように、初戦となった松商学園(長野)との2回戦は8-6と辛勝だったものの、続く仙台育英(宮城)との3回戦は8-3と快勝。

そして見事だったのが法政二(神奈川)との準々決勝で、曽根大洋/當仲優樹ペア相手に9-8(2)で勝利。法政二は伝統的にダブルスが強い強豪校で、當仲は松岡輝とのペアで団体戦後に行われた個人戦ダブルスで優勝するくらいの力を持った選手だったが、中島/福原ペアは先にブレークされたものの懸命に食らい付き、ワンチャンスをものにして追い付き追い越しての逆転勝ちとなった。

続く東京学館浦安(千葉)との準決勝はシングルス1森田、シングルス2武方駿哉が先に勝利したことでダブルスは途中打ち切りとなったが、北陸(福井)との決勝では、本田監督が“お前たち、実はそんなこともできたの?”というほどの強さと頼もしさを見せ8-2で勝利。その後、シングルス2の武方が先に勝利し、シングルス1森田の結果を待つことなく柳川が16年ぶり25回目の優勝を決めた。

優勝から遠ざかっていた16年間だが、本田監督は「今年以上に優勝できると思ったことが最低2回はありました」と振り返る。「準決勝あたりで“これはもう優勝の流れに乗った”と確信めいた時があっても、そこから急にガタガタと崩れて機能しなくなることが高校生にはあるのです」という経験をしてきたが、今回はダブルスのメンバー選考に苦しんだことで逆に目の前の試合に集中できたということもあるのだろう。

変化を恐れない名門・柳川高校の改革

だが、そうして栄冠をつかむための種は蒔いてきていた。その一つが自主練での意識改革だ。柳川は寮生活をしつつ練習でしっかりつくり上げていくことが強さの秘けつとなってきたが、この3年ほどはコロナ禍のためみんなで集まって練習することがままならない状況に。そこで本田監督は部員たちに「これまでのようにテーマを決めてみんなで練習するということができないのはどこの学校も一緒。だからこそ自主練が大切になる。自由な自主練ではなく、試合の準備のために何をどれだけやるのかを本人が明確に決めて短時間で取り組む。それは自分との戦いでもあり、柳川としてはそこをしっかりやっていこう」とハッパをかけていたのだ。

また部員たちにとって大きいのは、柳川卒業後に近畿大学に進み今年の4月から母校に教員として戻ってきたOBの薮田司がテニス部のコーチになったこと(近畿大学時代はダブルスで王座3位に貢献)。現3年生とは5歳差と年が近い薮田コーチは兄のような存在でもあり、父のような存在の本田監督(実際、2年生には本田監督の息子が在籍している)とはまた違った好影響、安心感を部員たちに与えている。

そして技術的な指導という点では、柳川OBでもある本村剛一、片山翔という2人のプロが外部コーチとして携わっていることも大きい。柳川というと、倒れるまで続く鬼の振り回しを行っていた、深夜2時まで練習していたという逸話があるが、それは創部初期のことで今となっては昔の話。現在は本村プロ、片山プロが生徒に惜しみなく最新技術を伝授している。

さらに柳川のコートサーフェスがグリーンセットという世界四大大会の全豪オープンと同じハードコートであることにも注目してほしい(以前はUSオープンと同じデコターフだった)。日本の高校生の大会は砂入り人工芝コートで行われることが多く、勝つことだけを考えれば学校の練習コートも砂入り人工芝のほうがいいのだが、砂入り人工芝で行われるATPツアー大会は皆無で、それだと世界に通用する選手を育てられない。そのためハードコートを採用しているのだが、現在、そのコートについても新たな進捗があるという。この話については〈柳川高校・変化を恐れない名門2〉に譲りたいと思う。

取材・文/高木希武(元テニスクラシック編集長)