強打をコーナーに打ち分け相手を左右に走らせた後、弓の弦を引き絞るような大きな構えから、突如としてラケットを優しく振り下ろす――。その瞬間、ボールを打つよりも早く客席から溢れる、ため息混じりの称賛と感嘆の声。アンディ・マリー(左)に敗れ…

 強打をコーナーに打ち分け相手を左右に走らせた後、弓の弦を引き絞るような大きな構えから、突如としてラケットを優しく振り下ろす――。その瞬間、ボールを打つよりも早く客席から溢れる、ため息混じりの称賛と感嘆の声。



アンディ・マリー(左)に敗れて準決勝進出を逃した錦織圭(右) 全仏オープン準々決勝の錦織圭vs.アンディ・マリー(イギリス)戦。錦織が世界1位を完全に翻弄した第1セットは、最後はドロップショットで柔らかく終止符が打たれる。試合開始からわずか33分、スコアは6-2。番狂わせが起こる予感に、強風が吹き抜けるセンターコートは、どこか落ち着きを失っていた。

 しかし試合の潮流は、第2セットの序盤から徐々に……しかし確実に、変化の兆しを見せはじめる。第4ゲームで立て続けにミスを重ねた錦織は、最後はダブルフォルトでゲームを失い、そのままセットも失った。

 第3セットは一進一退の攻防となるが、タイブレークの最初のポイントでフォアを大きく打ち損じ、続く打ち合いでバックをネットにかけた時点で、勝負の綾は一気に世界1位へと流れ込んだ。

「1セット目はすごく落ち着いて、作戦どおりに自分のやるべきことを的確にできていた」

 試合後の会見室で悄然としながらも、錦織は冷静にゲーム展開と、そのときの心境を振り返る。

「これ以上ないプレー内容と結果がついてきたが、2セット目以降から少し焦りだしたのと、最初のゲームを落としたところからちょっとずつリズムが狂い始めて……。自分に焦りが出て、少しずつ、やらなくてはならないことをできなくなっていた」

 その「焦り」がもっとも顕著だったのが第3セットのタイブレークだが、その前の第11ゲームもまた、いくつかの判断ミスが原因で落としたものだろう。

 最初のポイントでドロップショットをネットにかけると、続く打ち合いではフォアの打球を大きく浮かす。最後のポイントは打つべきコースを悩んだか、ラケットを離れた打球はネットの下のほうを叩いた。結果的には直後のゲームをブレークして追いつくも、この時点で精神的に「いっぱい、いっぱい」だったことを、後に彼は認めている。

 錦織が再三、この日の敗因として繰り返した「焦り」――。それは実は、マリーも大会前に抱えた悩みであったことを、錦織戦後の会見で奇しくも彼は明かしている。何しろマリーは全仏直近の2大会を、マドリードでは3回戦(1回戦免除)、ローマでは初戦(1回戦免除の2回戦)敗退という大きな不安を残す結果で終えていた。

「正直、今回の全仏前の練習でも、試合形式の練習ではいい状態ではなかったんだ」

 包み隠さず、彼は言う。

「マドリード大会のころは、試合中でも、どのショットを打つべきかわからないことが多々あった。打ち合いの途中で焦ってしまい、誤った判断をしていたんだ」

 では、それほどまでの不調にあえぎ、自信を喪失した彼はいかにして、わずか1~2週間で立て直しに成功したのか? それはテニスの原点とも言える、もっとも基礎的な練習に立ち返ることだった。

「ものすごく基本的なドリル練習を繰り返したんだ。さまざまなパターン練習を、文字どおり何度も繰り返した。正直、退屈な練習だ。楽しいとは言えないよ」

 だが、単調で退屈な練習を幾度も繰り返すなかで、彼には身体を通して獲得した、ひとつの確信があった。

「試合で長いラリーになると、まるで自動操縦のように身体が自然と反応し、正しいコースにボールを打てるようになったんだ。コート上で考えることが少なくなる。すると、物事はいい方向へと向かっていく。物事がうまくいかないときは、コート上で技術面などあれこれ考え過ぎてしまうものだからね」

 それが、世界1位のマリーが全仏直前に至った境地だった。

 今回のマリー戦での錦織は、「焦り」を生んだ要因として「戦術面でしなくてはいけないプレーを、だんだんしなくなっていた」ことを挙げた。もちろん、目指すプレーができなくなり始めたのは、マリーがテニスの質を上げたためでもある。

「僕は戦術を特に変えたわけではない。ただボールを正確に深く打ち、特にリターンをしっかり返すことを心がけた」とマリーは言った。

 そのマリーの球威やボールの深さに少しずつ差し込まれ、第1セットのように作戦を遂行できなくなり始めたことが、錦織の焦りを誘発したのだろう。マリーの言葉を借りるなら、錦織は「自動操縦」が解除され、「考え過ぎた」ということかもしれない。ならば、それを克服するヒントもまた、マリーの言葉にあるのではないだろうか。

「第3セットは、自分がいいプレーをしていたタイミングがあった。もうちょっと……集中力を持続し、攻撃的にプレーできていれば、また戦況は変わっていた」

 勝負に「たら・れば」は禁物と知りながらも、錦織は「悔いの残る」敗戦を振り返る。

 敗因と課題を痛みとともに身体に刻み、同時に「クレーシーズンで結果が出なかったなかで、いいプレーが戻ってきた」という手応えを、自信の根拠として彼はパリから持ち帰った。