幸運なことに、私は『羽生結弦語録』『羽生結弦語録Ⅱ』(ぴあ)という書籍に「文・構成」として関わることができた。彼が残した何百もの言葉を拾い、アスリートとしての羽生結弦を、ひとりの人間である羽生結弦を追いかけた。 羽生結弦とは、とんでもない自…

幸運なことに、私は『羽生結弦語録』『羽生結弦語録Ⅱ』(ぴあ)という書籍に「文・構成」として関わることができた。彼が残した何百もの言葉を拾い、アスリートとしての羽生結弦を、ひとりの人間である羽生結弦を追いかけた。

羽生結弦とは、とんでもない自信家である一方で、自らのうちにある不安や恐れを口にする正直な人でもある。

「天才」としか表現できないパフォーマンスを見せながら、そこらにいる普通の人と同じような感性も備えている。

勝利のためにすべてを捨てる激しさを持っているのに、ほかの人には優しい。

彼の言葉からは、相反するふたつ面が見えてくる。

◆「自分の心を守っていく」羽生結弦引退会見の衝撃と残る感謝の念

■7900人の観客の前で踏み出した新たな一歩

2022年7月19日に記者会見を開き、羽生は「プロ転向」を表明した。その席で活動内容を明らかにすることはなかったが、「全力でやっているからこその緊張感みたいなものをまた味わっていただけるようなスケートを常にしたい」と語った。

11月4日、5日にぴあアリーナMMで、プロ・羽生結弦が始動した。アイスショーのタイトルは『プロローグ』。7900人の観客が見つめるなかで、新しい一歩を踏み出した。

これまでの羽生はほかの選手たちと得点を争う競技者である一方で、自分のスケートを通じて思いを伝える表現者でもあった。どちらも限りなく高いレベルを追求したところに、羽生の羽生たる所以があった。

しかし、今回の『プロローグ』には、順位を争うライバルはいない。通常、フィギュアスケートのアイスショーでは多くのスケーターが集まるのだが、この氷の上で滑るのは羽生だけだ。

誰も見たことのないショーを前にして、観衆は声を出さずにたったひとりの主役を待っていた。

――ただいまから、6分間練習を開始します――

公演の冒頭に流れたのはこんなアナウンスだった。

オリンピックや世界選手権と同様に、演技前の「6分間練習」を始めた羽生。会場にはスケートの刃が氷を削る音が響く。プロとして初めて見せた演技は2018年平昌オリンピックで2度目の金メダルを獲得した「SEIMEI」だった。

その後、幼少期、自身も被災した東日本大震災、オリンピックなど「これまでの羽生結弦」を振り返る映像が流れた。自らがマイクを握り、ファンからの質問に答えるトークコーナーでは温かい笑いもあった。2022年北京オリンピックのエキシビションでも披露した「春よ、来い」では、涙をぬぐう観客の姿が多く見られた。

4歳からフィギュアスケートに打ち込み、オリンピックをはじめとする世界大会で頂点を目指した彼の人生がギュッと凝縮された90分間だった。

■悔しさをバネに声援を力に変えてきた

「獲るべきものは獲ったし、やるべきこともやった」。

羽生がこう語ったのは、2018年平昌オリンピックで金メダルを獲得したあとだった。その後は、誰も成功したことのない4回転アクセルへの挑戦をエネルギーにして競技者生活を送ってきた。

2019年には「いまは本当にアクセルをやるためにスケートをやっているなって思うし、そのために生きてるなって思います」と語っている。

2020年から世界中に広がった新型コロナウイルスの影響で、羽生も苦しんだ。拠点としていたカナダ・トロントで練習することができず、コーチも不在。孤独な戦いを強いられることになった。

2020年12月の全日本選手権のあとにはこんな言葉を残している。

「みんなすごい上手で、みんなうまくなってて。1人だけ、ただただ暗闇の底に落ちていくような感覚があった」。

そんな時にモチベーションとなったのは観客の存在だった。

「その時だけでも、僕の演技が終わってから1秒だけでもいいので、少しでも(苦しんでいる人たちの)生きる活力になったらいいなと思う1年でした」(2020年12月、全日本選手権後のコメント)。

悔しさをバネに、声援を力に変えてきた羽生。

「五輪って、発表会じゃないんです。やっぱり僕にとっては〝勝たなきゃいけない場所〟なんですよ」と言って挑んだ2022年2月の北京オリンピック。4回転アクセルに挑んだものの、その勢いを体が受け止めることができずに転倒(回転不足の判定ながら、国際スケート連盟公認の大会で初めて4回転アクセルとして認定された)、3大会連続の金メダル獲得もかなわなかった。

しかし、羽生は羽生結弦であることをやめなかった。

「僕にとって羽生結弦という存在は常に重荷です」(2022年7月の会見で)と語っているにもかかわらず。

これまでの歩み、功績はみんなが知っている。しかし、これからどこに向かうのかはまだ誰にもわからない。

「一つ一つの演技に全体力と全神経を注いで、ある意味では死力を尽くして頑張りたい」(2022年7月の会見)という熱い思いが彼にはある。

「これからも羽生結弦として生きていきたい」――ならば、これからも羽生を追いかけるしかない。

※文中のコメントはすべて『羽生結弦語録Ⅱ』より。

◆羽生結弦、プロ転向へ「決意表明」冒頭コメント全文 「僕は本当に幸せです」

◆プロ転向の羽生結弦 競技会での目標は完遂「獲るべきものは獲れた」

◆羽生結弦、現役引退を表明 今後はプロ転向へ「4回転半ジャンプへの挑戦は続けたい」

著者プロフィール

元永知宏●スポーツライター 1968年、愛媛県生まれ。立教大学野球部4年時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。大学卒業後、ぴあ、KADOKAWAなど出版社勤務を経て独立。

著書に『期待はずれのドラフト1位』『レギュラーになれないきみへ』(岩波ジュニア新書)、『殴られて野球はうまくなる!?』(講談社+α文庫)、『荒木大輔のいた1980年の甲子園』『近鉄魂とはなんだったのか?』(集英社)、『プロ野球を選ばなかった怪物たち』『野球と暴力』(イースト・プレス)、『補欠のミカタ レギュラーになれなかった甲子園監督の言葉』(徳間書店)、『甲子園はもういらない……それぞれの甲子園』(主婦の友社)など。