自ら現役のラストレースと決めた、10月22日の全日本スピードスケート距離別選手権500mへ向け、「例年のように長い距離を滑るのは我慢して、短距離にシフトしている」と話す小平奈緒(相澤病院)。10月3日の公開練習では、7月から強度を上げた合…

 自ら現役のラストレースと決めた、10月22日の全日本スピードスケート距離別選手権500mへ向け、「例年のように長い距離を滑るのは我慢して、短距離にシフトしている」と話す小平奈緒(相澤病院)。10月3日の公開練習では、7月から強度を上げた合宿を始め、8月の氷上合宿では1000mのタイムトライアル自己ベストを出すまでの状態になっていると話した。



平昌五輪の500mで金メダルを獲得。友人でありライバルだった李相花とスポーツマンらしい姿を見せた

「最後と決めた舞台へ向け、限られた時間を楽しむようにトレーニングができました。本当に最後なので、そこに向けて思いが満たされていく感じもありますが、アスリートとしてひとつのレースに向かう感覚を研ぎ澄ませないと自分の表現したいことはできない。アスリートとしての滑りを見てもらいたいと思っているので、徐々に言葉を少なくして感覚を研ぎ澄ませたい。今まで私が歩んできた経験がその1本のレースに凝縮されると思うので、それを見てもらいたいと思います」

 自分が氷の上にいる時間は、「"知る"を楽しむ時間だった」と話す小平。中学2年の時に、全日本ジュニアスプリント部門で史上初の中学生王者になった彼女は、自らが選び、信じた道を歩み続けた。高校はそれまでと同じ新谷純夫コーチの指導を受けるため、スケート部がない伊那西高校に進んで同好会で活動。大学も「選手たちがそれぞれ考えながらやっていたから」と、結城匡啓コーチの指導を受けるために信州大学に進んだ。

 そして着実に力をつけ、大学2年の2006~07年シーズンからW杯に参戦すると、長野大会1000m3位で初めて表彰台に上がった。2010年バンクーバー五輪シーズンにはW杯前半戦で500m1回(3位)、1000mで2回(2位と3位)表彰台に乗って初の五輪代表になり、500mは12位だったが1000mと1500mは5位入賞を果たし、チームパシュートでは銀メダルを獲得した。

 そこからパワーアップを図って500mと1000mをメインにすると、W杯でもシーズンに複数回表彰台に上がって上位に定着するようになったが、2014年ソチ五輪は500m5位、1000m13位と表彰台に届かなかった。

 そんな足踏み状態から抜け出そうと考え行動に移したのが、スピードスケートの本場・オランダへの留学だった。1998年長野五輪の1000mと1500mで優勝し、2006年トリノ五輪1000mも制したマリアンヌ・ティメル氏(オランダ)が指導するチームに入り、ソチでは金2銀3個を獲得したイレイン・ブストらのうしろについて滑り、その技術を学びながら練習を積んだ。言語も学んでオランダのスケート文化に触れ、そのシーズン(2014〜2015)は500mでW杯初勝利を挙げたほか、2位5回、3位2回と表彰台に乗り、日本女子では24年ぶりのW杯500m種目別総合優勝を果たした。

 一方で疑問も生まれた。日本の結城コーチの下でやっていた練習に比べるとはるかに少ない練習量。それでもなぜ結果が出たのかがよくわからなかった。それが何なのかを確かめるために、当初は1年の予定だったオランダ留学を、もう1年延長した。だが2015~16年シーズンのW杯は、前季とは違ってソチ五輪までのトレーニングの貯金がなくなった状態となり、表彰台に上がったのは3人で滑るチームスプリントのみで、500mは最高が6位と成績が落ち込んだ。

 オランダでは食が合わなかったこともあり、「自分には日本という環境や、ソチ五輪までやっていたようなハードな練習が必要だ」と確信。さらにオランダでの2年間で今まで以上に、スケートへの取り組みの知識や知恵の幅も広がり、自分が強くなることに対して柔軟に考えられるようにもなった。再び500mから1500mまでをW杯でも滑るようになった小平は、一気に覚醒した。

 2016~17年シーズンは、W杯初戦のハルピン大会は500mで連勝して、1000mは3位でスタート。2月に平昌五輪の会場となる江陵で行なわれた世界距離別選手権では500mで、ソルトレークシティ(気圧が低く記録が出やすい高地リンク)で出していた、自身の日本記録を0秒16上回る37秒13で優勝。その記録は低地世界最高記録だった。さらに1000mでも3位と成績を残した。

 その勢いは2週間後に高地リンクのカルガリーで開催された世界スプリントでも発揮され、500mでは自身初の36秒台となる36秒75(当時の世界歴代3位)と36秒80を出して連勝。1000mも1分12秒51の日本新を出した1本目は1位で、2本目は3位。

 500m2本と1000m2本のスプリント総合では世界記録をマークして初優勝。W杯でも500mは8戦全勝で種目別総合優勝を果たし、500mは国内外のレースをすべて制した。

"最強の小平"になって臨んだ平昌五輪シーズン。彼女が五輪制覇とともに大きな目標としたのは、低地リンクで36秒台を叩き出すことだった。

 オランダから帰国後に小平が筋力強化とともに取り組んだのは、ソチ五輪1000m出場に続き、平昌大会では500m出場も目指していたチームメイトの山中大地(電算)らと一緒に練習を行ない、体の大きい男子選手並のストロークで滑れるようになることだった。そのために自分でストレッチの方法も考え、滑走時の体の可動域を広げようとしていた。成果は2016~17年シーズンから出始めたが、五輪シーズンは、さらに突き詰めようとした。

 そのひとつが、女子ではまだ誰も実現していない低地での36秒台。ノルウェーで開催された前シーズン最後のW杯ファイナル初日に37秒14で滑った時、「その夢のタイムが現実的になってきた」と話していた。

 高いレベルの記録を維持しながらシーズンインをした小平は、11月のW杯ノルウェー大会では37秒08、37秒07と低地世界最高記録を連発。高地で滑る12月のカナダとアメリカの大会では36秒50の日本記録を筆頭に3レースとも36秒5台を出そろえ、1000mでも1分12秒09の世界記録を出した。

 勝負の場である平昌五輪では、開会式2日前のタイムトライアルで非公式ながら37秒05と万全な状態だった。

 平昌五輪で最初のレースとなった1500mは自己ベストで6位と上々のスタートをきった。次の1000mは2位で「1000mは12月に世界記録を出してはいましたが、『私は強いんだろうか』と、まだ信じられない部分があったのでそれが出てしまった」と振り返った。

 そして500m――。スケジュールとしては、1500mと1000mが中1日で行なわれ、そこから中3日で500mが行なわれた。長い距離から入たことで、体がスプリント仕様になりきれなかったという小平だが、500mの前日には、山中と一緒にスタート練習を行ない、70mまで全力で滑って感覚を蘇らせた。

 本番には、「リンクコンディションも自分の体の状態も確実によくなっている。タイムトライアルより速いタイムで滑れる感覚はあったから、戦うべきは順位ではなく、タイムや自分だと考えていた」と臨んだ。そして、狙いどおりに低地最高を塗り替える36秒94で金メダルに輝いた。

 結城コーチはそのレースを、「彼女は36秒という数字しか見えていなかったと思う。それさえ出せれば、例え負けても、誰になんと言われてもしょうがないと達観していて、プレッシャーさえ集中力に変えていたと思う」と振り返った。

 女子500mの新たな歴史を切り拓いた小平はレース後、地元開催で五輪3連覇を狙いながら2位になった親友の李相花が涙を流しながらウイニングランをしているところに駆け寄り、「あなたがいたから私も強くなれた」と伝えて抱き合い、一緒にリンクを滑った。強さや勝負だけではない、スポーツの持つ美しさを多くの人が感じたシーンだった。

 翌2018~19年シーズンは、3月のW杯ファイナル・ソルトレークシティ大会で、やり残していた李が持つ世界記録36秒36更新に挑んだ。そこでは36秒4台を連発したが、世界記録には届かなかった。そして翌週にカルガリーで行なわれた大会に臨み、男子のレースに特別参加し、非公認記録ながら36秒39を出した。

 だがその時期、彼女の体には異変が生じていた。2月の世界距離別の時点で、股関節に違和感があり、片足ではストレッチができない状態になっていたのだ。そんな状態を抱えたまま、2019~20年シーズンにはW杯500mでは6戦3勝、3位3回、1000mでも1勝の成績を残した。しかし、新型コロナウイルス感染拡大の影響で国際大会派遣が中止になった後半はシーズン中にもかかわらず、違和感解消のために体の再構築に取り組んだ。

 そして2020−21年シーズンは、体の違和感も解消され「最後の五輪」という思いで臨んだ北京五輪へ向け、優勝タイムは36秒台と狙いを定めて調子を上げ始めたが、22年1月に入って右足首を捻挫。2週間はまったく滑れず、北京入りした時点でもスタートで右足を踏ん張れない状態だった。そんな絶望的な状況でも、「頑張って立ち上がる姿を皆さんに見てもらいたい」と出場した。最後まで滑りきったものの、その結果、500mは17位、1000mは10位だった。

 試合後に、「体の痛みがない状態でノビノビ滑れたらいいな、という未来像を描いている」と話していた小平は、それから2カ月後の4月に引退を発表。同時に、10月の地元・長野県のエムウエーブで開催される全日本距離別選手権をラストレースとすることも発表された。体が元気になっているであろうタイミングで、五輪シーズン前から、「最後は思い出のある地元のリンクで滑りたい」という考えがひとつの形になった。

 小平がずっと思い描いていた理想の光景は、子供の頃にテレビで見て、「多くの人たちが一体となって共鳴している」と感じた、1998年長野五輪のスピードスケート会場だ。

「長野五輪の時のような空気感を再び作りたい」という思いを込めて、小平はエムウエーブで滑る。