2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。※  ※ …

2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第6回・髙久龍(東洋大―ヤクルト)前編



箱根駅伝では8区で区間賞を獲った髙久龍

 
 髙久龍は、2009年から2014年まで箱根駅伝で4回の総合優勝を果たした東洋大の黄金期を支えたひとりである。箱根駅伝デビューとなった2年時は7区4位で総合2位、3年時は8区区間賞で総合優勝に貢献した。その後、ヤクルトに入社し、2021年の福岡国際マラソンで2時間8分38秒をマークし、2023年のMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)の出場権を獲得した。五輪への挑戦は、「これが最後」と決めているが、その大一番に向けて髙久はどのようにその日を迎えようとしているのだろうか。

 東洋大との出会いは、那須拓陽高1年の時だった。インターハイが埼玉県で開催され、髙久はひとつ上の先輩の付き添いとして東洋大の寮に投宿した。その際、東洋大の練習に参加し、距離走をしていると「よい走りしてるね」とスカウトに声をかけられた。

「その時は、挨拶みたいな感じで声をかけてくれたのですが、高2、高3とタイムを出していくとスカウトの方が逆に学校に挨拶をしに来てくれるようになりました。ただ、最初は大学で陸上を続けることを決めていなくて、せっかくなのでやりたいなぁぐらいのふわっとした気持ちでした」

 高校時代は、陸上そのものに興味があったわけではなかった。箱根駅伝への関心も薄く、高3の1月に現地観戦するまで見たことがなかった。

「東洋大に行くと決まってから自分が行く大学はどのくらい箱根に強いのか、調べたぐらいです(苦笑)。実際に高3の1月に箱根を見に行った時も自分がここを走るなんて想像もつかなくて、あくまでも見ている側っていう感覚でした」

2年時の記録会で好走し駅伝デビュー

 髙久が見学した第87回箱根駅伝で東洋大は総合2位となり、惜しくも3連覇を達成できなかった。だが、柏原竜二、設楽啓太・悠太がおり、黄金期を迎えていた。チームには、強い選手が多く、厳しい競争下に置かれた1年目、髙久は駅伝に絡むことができなかった。

「1年の時は、初めての寮生活で、しかも先輩後輩のルールや厳しさがあって、最初の半年は陸上よりも寮生活に慣れるのが大変で......正直、箱根を目指すという気持ちにすらなれないぐらい忙しかったです。しかも故障が多く、練習が継続できないので体重が4キロ増えて、またケガをしての繰り返しで、1年目から駅伝を狙うのは難しいなぁって思っていました」

 故障すると練習ができず、ストレス解消の意味もあってお菓子や炭酸飲料などに手をつけ、やめられなかった。見かねたコーチから「そういうのやめてみたら」と言われ、実践すると体重が落ちた。2年時からは体質が変わり、軽い走りができるようになった。また、ケガの影響で自分の体を知ろうと筋肉の動きなどについて学んだ。フォームも苦しくなるといかり肩になり、息が上がるのが早かったが、きつくなった時のラクな走りを習得し、記録会などで自己ベストを更新していった。そして9月、髙久は駅伝デビューのチャンスを獲得した。

「夏合宿明けに埼玉記録会というのがあって、それが東洋大の出雲駅伝の選考レースだったんです。そこで設楽(悠太)さんとそんなに変わらないタイムで走れて、出雲駅伝のメンバーに選ばれました。出雲で駅伝デビューができたので、この記録会が僕のターニングポイントになりました」

 髙久が成長したのは、彼自身の努力が大きいが、部内環境も大きかった。

「最初、設楽(悠太)さんとか強すぎて、一歩引いていましたね。勝ちたいというよりもやっぱりすごいなで終わっていました。でも、設楽さんや先輩にくっついて走ることで自然に力がついてきましたし、先輩たちと同じメニューでいい動きをしないと駅伝のメンバーには選ばれなかったので、途中からは追いつきたい、勝ちたいという気持ちが大きくなっていきました。それからですね、陸上に対して初めて欲が出たのは。記録会とかあまり出なかったですけど、チーム内で設楽さんや先輩に勝てれば他の大学や選手には負けない自信があった。それくらい東洋のレベルは高く、環境的にはすごくよかったです」

 東洋大の選手は、記録会やトラックのレースにはあまり出場しない傾向にある。選手にとってタイムはレースへの参加資格を得たり、現在地を知るうえで必要なものだが......。

「確かに僕がいた時もレースや記録会にがっつり合わせる感じではなかったです。Aチーム、Bチームがあって、強い先輩たちがいるAチームのメニューを、余裕をもってこなすことができた時に大会で結果が出たので、練習が自分たちの物差しになっていました。だからこそ大会や駅伝に対してすごく集中して、頑張ろうって臨めたのだと思います」

3年時の箱根駅伝は急遽出場することに

 髙久は、出雲駅伝は5区区間新、全日本大学駅伝は5区3位と好走を続けた。箱根駅伝では、1年前の悔しさを糧に成長した自分をぶつけようと決意した。

「1年の時の箱根に、同期の田口(雅也)が出ました。田口は入寮した時は、1番タイムが遅く、朝練習で12キロを走るのですが、4キロ手前で離れてしまい、監督に『夏まで自分でやれ』と言われるぐらい弱い選手でした。それが1年で唯一箱根に出て、区間賞を獲って優勝メンバーになったのです。田口が走ったのはうれしかったのですが、本音は悔しいし、みんな負けていられないというのがあった。次は絶対に自分が走るという気持ちがより大きくなりました」

 初の箱根駅伝は、7区4位と健闘したが、総合2位に終わった。3年時は、故障が続き、箱根駅伝のエントリーメンバー入りはしたが、ポイント練習でケガをしてしまい、酒井(俊幸)監督からは「外す」と言われた。だが、区間エントリ―の際、出走予定の先輩が体調を崩してしまい、急遽、出番が回ってきた。

「先輩からは、こんな感じで選ばれるのって何か持っている時だから自信をもっていけって言われて。その時のライバルが駒澤大で、同じ8区は1年生の大塚(祥平・現九電工)だったのですが、負けるわけがないって思っていましたし、早く走りたくてうずうずしていました」

 髙久は、8区区間賞でチームの総合優勝に貢献した。あまり実感が湧かなかったが、実家に戻った時、両親や周囲が喜ぶ姿を見て、優勝してよかったとつくづく感じた。

 4年時は副キャプテンになり、箱根駅伝2連覇を目指した。だが、チーム事情により、故障を押して出場した全日本大学駅伝で症状を悪化させ、箱根は早々に断念せざるを得なくなった。普通なら腐りそうになるが、髙久は後輩たちへのサポートをすることで気持ちを前向きにリセットした。故障していた髙久は、同じ治療院に通う上村和生(現大塚製薬)ら後輩に同行し、張っている箇所をトレーナーに聞き、食事後、部屋で彼らにマッサージを施すなど、裏方に徹した。

「今、思うと自分でもよくやったなぁと思うくらい後輩の面倒を見ていました。それを監督が見てくれていて、『そういうのは実業団に行った時、必ず活きるから』と言ってくれました。当時、練習ができないし、気持ちが落ち込みがちだったのですが、そういうことを言ってもらえたおかげでモチベーションを維持して、箱根に臨むことができました」

 髙久は後輩たちへの献身的なサポートでチームを支えたが、箱根駅伝は総合3位に終わった。優勝したのは、箱根初制覇を果たし、これ以降、ライバルとなる青学大だった。

「ちょうど青学大が上ってきている時で、あのキラキラした感じはすごいなぁと思いつつ、ちょっとかなわないなと思っていました(苦笑)」

 髙久は、4年間で2度、箱根駅伝を駆けた。一番印象に残っているのは、やはり3年の時の優勝だという。

「2年生の時は、生活面では1年生の面倒を見ないといけないですし、陸上面では箱根で勝たないといけないとそればっかり考えていた。そのせいで変に体に力が入って、硬くなり、結果もよくなかった。でも、僕が3年の時、4年生はチームを引っ張ったり、監督との距離が近くなったりして陸上以外に考えることが多いのですが、自分たちは伸び伸びやれた。箱根を走っていてもすごく楽しかったですし、それが結果として表われ、優勝できたので本当に最高の箱根でした」

 優勝の経験、そして箱根駅伝を走ったことは、その後の髙久の陸上人生にどんな影響を与えたのだろうか。

「最近は、箱根駅伝がゴールという選手も多いですよね。僕らの時は、酒井監督が『世界で戦ってほしい。箱根はあくまで通過点』と言われていたので、常日頃からそのことを意識していました。箱根の練習を通して長い距離を踏んでいくなかで、いずれはマラソンで勝負したいなという気持ちも湧いてきました。僕は箱根に成長させてもらいましたし、箱根への取り組みが今のマラソンにつながっていると思います」

 箱根駅伝は髙久にとって一番大きなものになった。だが、大学を卒業し、実業団に入って活動するなか、箱根は五輪に比べると「小さな世界」であることがわかった。それでも得たものは多く、それをベースに髙久は、五輪出場に向けて歩んでいくことになる。

後編に続く>>「競技人生の最後」と決めてパリ五輪を目指す理由