文武両道の裏側 第11回 陸上男子100メートル 山縣亮太(セイコー社員アスリート) 前編山縣亮太選手 2024年パリ五輪を見据えるスプリンターがいる。陸上男子100メートルの日本記録保持者(9秒95)の山縣亮太(セイコー)だ。広島で生まれ…

文武両道の裏側 第11回
陸上男子100メートル 山縣亮太(セイコー社員アスリート) 前編



山縣亮太選手

 2024年パリ五輪を見据えるスプリンターがいる。陸上男子100メートルの日本記録保持者(9秒95)の山縣亮太(セイコー)だ。広島で生まれ育った稀代のスプリンターは、伝統ある修道中学・高校から慶應義塾大学へ進んだ。彼が陸上競技に魅せられ、100メートルを走る自身と向き合い続けて20年が経っている。

 小学生時代から全国大会で活躍し中学受験を経て進学した山縣は2012年、慶應大2年の時に日本代表としてロンドン五輪に出場。以来10年、大きなケガや病気に見舞われながらも、日本陸上男子100メートルのトップであり続けている。

 奇しくも6月10日、「時の記念日」に生を受けた山縣は、10秒、0秒01という「時」と、どのように向き合ってきたのだろうか。山縣は限られた時間をどう競技や勉学に使ってきたのだろうか。その軌跡をたどる。

* * *

進学先の決め手は陸上部と、ブレザー?

ーー山縣選手は中学受験をして、広島の名門・修道中学・高校へ進学しました。当時を振り返って、受験にまつわる思い出はありますか?

山縣亮太(以下、同) 広島には中学受験をする学校で人気の学校がいくつかあって、修道の他にも、広島大学附属や広島学院も受けました。小学3年の頃から塾に通っていて、苦手な算数に取り組んだり、思い出がいろいろありますね。

 中学受験の対策としては、学校によってさまざまなやり方があったんですけど、なかでも修道は、1時間かけて放送で読み上げられる質問に答えていくという問題があって、特殊な試験への対策をした記憶がありますね。

ーーいくつか受験したなかから修道中学を選んだ理由は?

 修道は制服が学ランじゃなくて、ブレザーなんです。それが、カッコいいんですよね。とても自由な校風で、高校2年の時に制服じゃなく私服でOKになりましたね。

 広大附と迷ったんですけど、決め手となった要因としては陸上部があることです。当時、自分が修道以外で狙っていた学校には陸上部がなくて、小6ながら、やっぱり陸上をやりたいなっていう気持ちがあったんですよね。

ーー山縣選手はいつ頃から陸上を始めたのですか?

 小学校低学年の頃は野球やサッカーもちょっとかじるくらいにやっていました。陸上は小学4年からで、塾通いのほうが先でしたね。いろんなスポーツをするなかでも、やっぱり陸上競技が一番面白いと思っていた記憶があります。当時から勝敗やタイムという結果に、自分の努力がダイレクトに反映されるところに、すごくやりがいを感じていました。

 当時から全国大会に出たいという目標があったんです。クラブでのトレーニングはもちろんですけど、自主トレもかなりやっていました。家でプラスアルファをやるようになって、自ら進んでする努力が結果になるとすごくうれしかったです。

 そして小学5年の時に、初めて全国大会に出ました。「日清食品カップ」でしたね。広島県大会で優勝した時の記録が、全国で決勝に進める8番以内に残るかどうかの記録で、このまま頑張れば決勝にいけるかも、全国の決勝に届くのかもしれないと、ワクワクしました。それですごく頑張ったんですよね。結果的には8番だったんですけど。

練習で疲れている日も「5、10分の勉強」を継続

ーー小学生ながら目標を意識して努力していたんですね。とはいえ、中学受験での難関突破と陸上の全国大会、両方を同時に目標に据えていました。難しさは感じていましたか?

 やっぱり時間と体力の配分が難しかったですね。実際、僕がどこまで文武両道ができていたかというと、もうちょっとちゃんとやる必要があったかなと、当時を振り返って思うんです。でも、練習を本当に目一杯やると疲れちゃうじゃないですか。なんて言うか、勉強のほうに回す体力があまり残ってないことも正直しょっちゅうありましたよ。

ーーそれでも、両方とも継続されてきました。

 勉強は科目によって差がありましたけど。僕は歴史がすごく好きで、小さい頃から日本や世界の歴史の本を繰り返し読んでいたりしました。もともと好きな科目は、面白いから勝手にやるんです。けれど、問題はちょっと苦手な科目ですね。

ーーどのように苦手な科目に取り組んでいたのでしょう?

 意識をしてたのは、「5分、10分でもいいからやる」ということです。一気に1時間勉強しようと思ったら、「ちょっと体力がないな」とか「疲れたな」と思ってしまいます。でも、1科目5分だけだったら、毎日どんなに疲れていても、頑張れるかなと。

 たとえば、宿題や予習・復習にしても、全部やろうと思って取り組むのではなく、ちょっとやろうかなという感じで始めてみる。すると、始めたら動き出すみたいなところがあって、5分で終わるつもりが、気がついたら1時間やっていたりとか。そういう自分の歯車が、噛み合って動き続けるのに期待していたのかもしれません。

ーーやり始めれば動き出す。確かにそういうことがあるかもしれませんね。陸上のほうでは、「しんどい」と心が折れてしまうような時はなかったのでしょうか?

 子どもの頃は、正直、陸上選手になろうと思っていたわけではなかったんです。将来についてのイメージがまだ漠然としていました。それでも、やっぱり陸上が面白かったので、好奇心に流れを任せるような感じでした。

 次第に大学行っても続けたいと思うようになっていましたし、「やめたい」とかマイナスの気持ちになることはなかったですね。ただ、必ずしも、すごい陸上選手になってやるぞと思いながら走っていたわけでもありませんでした。

「9秒台を狙えるじゃん」と思った日

ーーそんな山縣選手ですが、今では陸上に専念しています。自身が「自分は陸上選手なんだ」と思ったのはいつ頃ですか?

 大学2年で、10秒07という記録を出せて、「9秒台を狙えるじゃん」とその時にあらためて思ったんです。10秒07は初めて出場した五輪での記録だったんですが、記録で自分の立ち位置を判断する部分があるので、五輪に出たから陸上選手なんだというより、9秒台を狙える位置にきたことでそう思えた。長い100メートルの歴史で、当時は9秒台を出した人がいなかったから、大きなチャンスがあるなって。

ーーその当時の日本記録は10秒00でした。

 1998年に伊東浩司さんが出された記録が燦然と輝いていていました。自分が20歳の時、そこに肉薄する10秒0台を出すことができたのが、大きな自信になりました。漠然と将来を考えるなかで、せっかくあるチャンスなら飛び込んでいきたいとの思いが、芽生えたんです。

 日本のスプリント界は世界的に見ればまだまだで、上には上がいます。それがむしろ僕にとっては面白そうだと感じられました。僕がアスリートを志した大学2年当時は、まだアジア人、黄色人種で9秒台を出した選手がいなくて、その悲哀の時間が長かった。自分がそこを切り拓いていける第一人者になれたら面白いだろうなって思っていました。

インタビュー後編 「パリ五輪でアジア新記録を狙う山縣亮太。意識する『自分の経験値と専門家の知見のリンク』とは?」>>

<profile>
山縣 亮太 やまがた・りょうた 
1992年、広島県生まれ。陸上男子100メートル日本記録保持者(9秒95)。セイコー社員アスリート。広島市の修道中学・修道高校を経て、慶應義塾大学総合政策学部へ進学。在学中の2012年、ロンドン五輪に出場。2016年リオデジャネイロ五輪、2021年東京五輪にも出場。2021年、布勢スプリントで100メートル9秒95の日本記録を樹立。