2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。※  ※  ※  ※パリ五輪を…

2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

※  ※  ※  ※

パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第5回・神野大地(青山学院大―コニカミノルタ―プロランナー)後編
前編を読む>>「山の神になりたくて毎日練習していた」



2021年の防府読売マラソンで2位。MGCの出場権を獲得した神野大地

 神野大地は、箱根駅伝2連覇という大きな財産を残して、青学大を卒業し、憧れの宇賀地強が在籍するコニカミノルタに入社した。それから1年半後、福岡国際マラソンでマラソンデビューを飾ることになるが、フルマラソンへの挑戦は学生時代から考えていた。

「僕は、トラックレースがあまり得意ではなくて、レースでいつも2レーンを走っているような選手だった。だから将来は、マラソンで勝負したいという気持ちが強かったです」

 実業団1年目の神野は、非常に順調だった。

 ニューイヤー駅伝では4区を走り、青梅マラソンで日本人トップの総合3位、丸亀ハーフでは大迫傑よりも先着し、日本人トップの総合5位という成績を残した。神野は、その頃を振り返ると、「その調子がいい時にマラソンを走ってもよかったのかも。それが唯一の後悔です」と語った。

 それは一体、どういうことなのだろうか。

「マラソンはメンタルがすごく重要だなっていうのは11回走って感じていることなので、1年目にレースで結果を出して、自信が膨らんでいる時にマラソンに出ていたら、どうなっていたのかなと思っていました。実は、初レースに向けて、計画を練りに練っていたんです。原監督だったら、とりあえず走ってみればいいんだという考えだったと思うんですけど、その時はそういうふうに思えなかった」

 それはなぜだろうか。

「箱根で優勝したけど、何かの日本代表になったわけではなく、関東の駅伝で優勝しただけじゃないですか。大学時代は、行け行けどんどんで行けていた部分があるんですけど、卒業後はマラソンで日本のトップになるのを目指したので、きちんと練習をやりきって戦える状態にならないとスタートラインに立ってはいけないみたいな気持ちだったんです」

苦しかったマラソンデビュー

 神野が入念な準備をして臨んだ「福岡国際マラソン」は、2時間12分50秒に終わり、思うような結果を残すことができなかった。

「僕は、最初のマラソンがあまりよくなくて、マラソンの現実を突きつけられた感じでした。そこから自分のマラソン人生が苦しくなりました......」

 2018年にプロになったが、マラソンでは苦しいレースが続いた。それでも2019年のMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)に出場しているし、アジアマラソン選手権で優勝した。だが、なかなかサブ10には届かず、他の選手が2時間5分台や6分台を出していくなか、どんどん追い詰められていった。

「一番苦しかったのは、2020年後半から21年ですね。福岡では28キロで途中棄権して、翌年のびわ湖(毎日マラソン)で2時間17分に終わってしまって......。福岡の前もびわ湖の時も練習はかなりできていたんです。特にびわ湖の前は20キロ59分34秒で行けていたんですが、レースではそれよりも遅いペースで14キロで離れてしまって。この頃は、またダメだった。もうあとがないとか、自分を追い詰めてしまっていましたし、試合に対する恐怖心がどんどん増していました」

 マラソンの不調はその春のトラックシーズンにも影響した。練習では12000mの変化走を36分フラットで走り、1キロ3分ペースを維持していた。だが、ホクレン北見大会の1万mでは自己ベストに1分半届かない29分49秒もかかり、「なんで?」と神野自身も首をかしげる内容だった。

「その時もレースへの怖さが出てしまって......。ダメなレースが続きすぎると、その恐怖心がどんどん増していって、次へのモチベーションが上がらなくなるんです。元々、僕は遅かったので、大学の時は走ればベストが続いて、壁にぶつかることがなかった。でも、マラソンを始めてからは練習が楽しくない時もありました。それって陸上選手としては致命的で......頑張った先に栄光があるのかどうかもわからない状況が続いていたし、結果がすべてという陸上の厳しさに直面した感じだったので、けっこうしんどかったですね」

 なぜ、結果が出ないのか──。

 答えがなかなか見つからないなか、藤原新コーチと話をして、トラックに対する考えを変えた。レースはあくまでの練習の一環として考え、あまり結果を求めないようにした。練習も余裕を持ってできる内容に質と量ともにメスを入れた。

結果を出して自信がついた

 悩みの淵にいた神野を劇的に変えたのは、あるレースだった。

「2021年の11月、激坂(最速王決定戦)のレースに出たんですが、その頃はレースに出る度にダメだったので自信をなくしていました。でも、そこで優勝した時、まだ自分の存在価値があるなって思って、自信がわいてきたんです。その激坂の1週間後に1万mの記録会に出ると28分35秒が出て、それからしずおか市町村対抗駅伝大会に(練習拠点である)浜松の代表として出たんですけど、28分20秒ぐらいのタイムを持つ学生が数人出るなか、区間賞を獲りました。いくらいい練習が積めても試合で結果が出ないと本当の自信はつかないですし、強さを手に入れられない。激坂の優勝がきっかけになって、自信を取り戻せたのは本当に大きかったですね」

 神野は、区間賞を獲った2週間後の防府読売マラソンで2時間9分34秒とサブ10を達成、2位になり、MGCの出場権を獲得した。激坂優勝から得た自信とこれまでの練習の成果が融合し、神野本来の走りが引き出されたと言えよう。

 ひとつ壁を乗り越えた神野だが、競技以外でも積極的に動いている。自ら開発に参画したソックスを販売したり、今年5月にはRETO Running Clubという自らのクラブチームを発足させた。「現役ランナーが?」という声があるなか、常に新しいことに取り組み、競技者としてだけではなく、人間的な成長も重視してきた。

「ランニングクラブのみんなや自分と関わりを持っている人が頑張っている姿を見ると、自分も頑張れるし、モチベーションが上がるのですごくプラスになっています。合宿もしましたし、メンバーの成長を見るのもすごく楽しいですね」

 函館ハーフではレースを終えた神野が出走していたメンバーを応援した。市民ランナーが現役のプロ選手に声かけしてもらえるのは、チームならでのシーンだ。

2023年秋開催のMGCで勝負

 今、神野はMGCに向けて、着々と強化し続けている。

 7月から2カ月間、ケニアのイテンで合宿を組み、秋には海外でのレースに出場予定だ。そうした準備は、前回のMGCの経験が活きているからでもある。

「前回のMGCは、出場権を獲得してから半年しか準備時間がなくて、練習はすごく頑張ったけど、結果として出るだけになってしまった。その時、気持ちのゆとりの必要性やピーキングの難しさを感じました。でも、MGCに勝つために一番必要だなって思ったのは、自分が勝てるという自信です。前回はワンチャン狙ってやろうみたいな感じだったんですけど、それじゃ勝てない。僕が箱根駅伝の5区を走る前、どういう気持ちだったのかを考えると、絶対に山の神になる、絶対に区間賞を獲るという気持ちでスタートラインに立っていました。MGCもそういう自信を持った状態でスタートラインに立つことが重要だと思っています」

 前回のMGCは17位に終わり、その厳しさを知るからこそ、その域に達するために準備を怠りなく進めていく覚悟だ。そこには日の丸をつけて走ることへの強い意欲が読み取れる。

「パリ五輪に出るのは簡単なことじゃないのは十分理解しています。でも、やっぱり五輪に出たい。このまま終わってしまうと『山の神止まり』とか『マラソンではダメだった』と僕の陸上人生は言われてしまう。僕は、箱根駅伝で上の景色を見てしまったので現状に満足できていない。その箱根を超えられるのは五輪しかない。だから五輪に出て、活躍したいです」

 MGCは2度目の挑戦になる。大きなレースは冷静に、慎重にとも言われるが、1年目に感じた後悔を繰り返してはいけない。

 行け行けどんどん。

 結果を出していた頃の気持ちで神野らしいレースができれば、パリの灯が見えてくるはずだ。