渾身の雄叫びがロンドンの空に響き渡った。 両手を突き上げ、何度もガッツポーズを繰り返す。日本が誇る国枝慎吾は、遂にテニスの聖地「ウインブルドン」で念願の夢を叶えたのだ。 この地での勝利がどれほど大きいものなのか言うまでもない。テニス選手にと…

渾身の雄叫びがロンドンの空に響き渡った。

両手を突き上げ、何度もガッツポーズを繰り返す。日本が誇る国枝慎吾は、遂にテニスの聖地「ウインブルドン」で念願の夢を叶えたのだ。

この地での勝利がどれほど大きいものなのか言うまでもない。テニス選手にとって憧れの場所であり、国枝にとってはやり残したことがある聖地だった。ウインブルドンでは2016年から車いすのシングルスの開催が始まり(2015年までダブルスのみ)、王者にとって今回が5回目の挑戦。これまで2019年に準優勝していたが、本人にとっては芝でフィットしきれない歯がゆさを感じていた。特に芝ではハードやクレーに比べ、車いす操作の負荷が大きくなると言われている。その動きにくさのなかでバウンドが低くボールが滑りやすい特性にフィットしきれなかったように見受けられた。

だが今年の国枝は「芝でのプレーの仕方を見つけた」と話し、1回戦のトム・エフべリンク(オランダ)戦をファイナルセットに入りながらも見事に修正し、最後は主導権を渡さないほどの強さを見せた。

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■イギリスの若手スターと繰り広げた熱戦

決勝で待ち受けていたのはイギリスの若手スターであるアルフィー・ヒューウェットだ。センターコート横にある3番コートには地元選手の初優勝を後押しするために多くの観客が集まった。

試合序盤、ヒューウェットはウインブルドン初制覇への意気込みを上手くコントロールしていた。得意のバックハンドで国枝を振り回しては、狙い撃ちのようにリターンエースを奪う。毎ゲームのように何度も繰り返されるデュースは観客をゲームに没頭させ、1ポイントごと熱のこもった声援を送らせるほどだった。

これには世界王者、国枝にもジワリと汗が流れだす。世界ランク2位の芯のくったボールは、見えないプレッシャーを充分に引き起こさせ、キープすることさえ難しくなった。

第1セットを4-6で先取されると、続く第2セットも常に追いかける状況は変わらない。だが国枝の辞書に「諦める」という文字など存在していないだろう。優勝への階段を上り続けるヒューウェットに真っ向勝負を挑み続け、あと2ポイントと迫る4-5の0-30では思いっきりのいいフォアをクロスへ打ち抜いた。たった1本のエースに見えたその1球が第2セットの流れを引き戻し、3ゲーム連取でセットを奪い返すことに成功。流れは国枝に傾くようにも見えた。

だが、この試合はまさに死闘と呼ばれるものだった。ヒューウェットはギアを上げ返し、事あるごとに見事なショートクロスで国枝の動きを止めた。再び息を吹き返す英国人の勢いに、日本のスターはプレッシャーをかけられるようにダブルフォルトやアンフォーストエラーを打たされる。そして2-5の窮地にまで追い込まれた。

だがここでヒューウェットに異変が起きる。初制覇ヘの意識からか、大胆さが息を潜め立て続けにミスを犯す。1ポイント目でダブルフォルトを犯すと、ストロークにも僅かな不安が乗り移っていく。これには「絶対王者」の国枝が黙ってはいない。目を光らせ積極的にボールを叩き込んでは、ネットで飛びつくように手を伸ばしパッシングを食い止めた。壮絶な打ち合いに走り回り、エースを取られれば「うあっ」と一声出し自身に喝を入れる。その様はまさに極限状態での全力疾走。6-6のタイブレークでは、両者の覇気をまとうプレーに見ている方も手に汗を握る瞬間ばかりだ。

■試合後に明かした王者からの助言

そして3-5から6ポイント連取に成功し迎えたマッチポイント。ボディぎみに入ったサーブをフォアでストレートへと綺麗に打ち流し、38歳にして見事キャリア初のウインブルドンタイトルを手に入れた。

国枝は「このタイトルをどうしても取りたかったんです。この年齢で今日が最後かもしれないと思っていたので、とても嬉しいです。このタイトルは僕にとって最高のグランドスラムタイトルであり、もっとも難しいタイトルでもありました」と顔をクシャクシャにして喜ぶ笑顔は、不思議と少年らしさを感じる。

東京五輪以来の特別な瞬間だと話し、その後に起きた燃え尽き症候群の末に引退をせず続けてよかったとも語った。

そして試合後には、ある人物から助言を受けていたことを打ち明けている。それはウインブルドンで8度の優勝を経験するロジャー・フェデラー(スイス)だ。昨年、互いのウェア契約先のユニクロの企画で繋がった機会に芝で勝つ方法を聞いていたという。

「ロジャーは、芝ではすべてのポイントを攻めろ。間違えても後悔するなと言った。それが大事なことだったんです。今日はミスをしたときも『これでいい』と言い聞かせました。そして次のポイントはすぐにアグレッシブに攻めました」。

その言葉通りチェアワークが普段よりも難しい芝で、より一層攻め抜いて掴んだ栄冠。国枝は今回の優勝によりグランドスラムでシングルス28勝、ダブルスで22勝の通算50勝を達成する軌跡を残している。

国枝はこれでグランドスラム4大会をすべて制覇、五輪金メダルと併せ、車いすテニス選手として初めての生涯ゴールデンスラマーとなった。果たして、この後「レジェンド」の戦いは、いかならるステージへとつながるのだろうか。

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著者プロフィール

久見香奈恵●元プロ・テニス・プレーヤー、日本テニス協会 広報委員

1987年京都府生まれ。10歳の時からテニスを始め、13歳でRSK全国選抜ジュニアテニス大会で全国初優勝を果たし、ワールドジュニア日本代表U14に選出される。園田学園高等学校を卒業後、2005年にプロ入り。国内外のプロツアーでITFシングルス3勝、ダブルス10勝、WTAダブルス1勝のタイトルを持つ。2015年には全日本選手権ダブルスで優勝し国内タイトルを獲得。2017年に現役を引退し、現在はテニス普及活動に尽力。22年よりアメリカ在住、国外から世界のテニス動向を届ける。