新濱立也インタビュー前編今年2月の北京五輪スピードスケート男子500mで金メダル候補とされながら、スタートでバランスを崩すミスにより20位に終わった新濱立也(高崎健康福祉大学職員/25歳)。それから少しの時を経て、これまでのスケート人生や五…

新濱立也インタビュー前編

今年2月の北京五輪スピードスケート男子500mで金メダル候補とされながら、スタートでバランスを崩すミスにより20位に終わった新濱立也(高崎健康福祉大学職員/25歳)。それから少しの時を経て、これまでのスケート人生や五輪の戦いをどう振り返り、未来をどう展望するのかーー。自身もスピードスケート選手として2度の五輪出場経験がある宮部保範が、新濱が働く高崎健康福祉大学を訪ねた。前編では、スケートを始めた幼少期、挫折から大きく成長した高校時代にさかのぼる。



インタビューで少年時代を振り返った新濱立也

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日々20km自転車を漕いだ少年時代

 北京五輪で涙をのんだ男がいる。新濱立也、25歳。北海道出身のスピードスケート男子のスプリンターだ。五輪の前哨戦となるワールドカップ(W杯)では4レース中2勝、持ちタイムは参加選手中2番目の33秒79(日本記録)で、金メダル候補の一翼を担っていた。

 前回2018年平昌五輪の選考会では次点で代表を逃したとはいえ、北京五輪までの4年は破竹の勢いで世界大会を席巻してきた。日本代表チームの起爆剤となり、スプリントチームのエースとしてチームを牽引してきた新濱とは、いかなる人物なのかーー。

 新濱は、北海道東部の野付半島のたもとに位置する別海町尾岱沼(おだいとう)で漁師の家の次男として生を受け、国後島を望む浜で育った。冬になれば、皆が学校の授業を通してスケートに親しみ、少しでも速く滑りたいと思えば、どの地域にもスケート少年団がある土地である。

 2歳年上の兄が地元尾岱沼のスケート少年団に入っていたという新濱は、兄の背中を追い、ごく自然に同じ少年団に入った。しかし、当初にぎやかだったチームは次第にメンバーが減り、6年生の時には、とうとう兄弟ふたりだけになってしまった。

 だが、「スケートが楽しかった」という新濱の情熱は冷めなかった。兄弟は、地元の集落から20kmほど南に下った別海町の市街地にある別海スケート少年団白鳥の門をたたいた。地元の少年団が地域の少子化の波に抗えずに解散したことは、少年時代の新濱とって寂しかったに違いない。しかし、これを機に新濱のスケートとのつき合い方が変わった。

「白鳥の少年団に移るまでは、家から2分くらいのスケートリンクで練習していました。それが別海の街中となると車で2、30分はかかります。学校が終わってから練習に向かうんですが、1時間から1時間半かけて自転車で行っていました」。

 練習の帰りは仕事を終えた両親が迎えに来てくれたというが、当時小学6年の新濱は日々、吹きすさぶ風に立ち向かい、長い道のりを通った。

「最初は、正直きつかったですね。でも体力づくりにもなるし、気分転換みたいな感じで楽しく(自転車に)乗っていました。たまに鹿が出てきたり、ヒグマが出たという警告の看板を目にしたりするので、少し恐怖もありましたよ。ヒグマには実際に遭ったことはないんですが、数時間前に出没したという警告を見た時には、本当に怖かったですね」

 自然の雄大さと脅威を肌で感じながらペダルを漕ぎ続けた新濱は、自転車の楽しさにも目覚めた。

「練習場までは兄とふたりで、競争というまでじゃないですけど、けっこう速いスピードを出してました。早めに着いて、(練習前に)ちょっと休みたいとか、おにぎりを食べたいっていうのがあったので、一回も休憩せずに行ったり。トレーニングの一環として自転車に乗っていたはずが、だんだん面白くなって練習がオフの日でもサイクリングに出かけるようになりました。親に伴走してもらって、尾岱沼から中標津(なかしべつ)、標津、尾岱沼とグルッと周って7、80kmくらい走りました。楽しかったですね」



インタビュアーは元スピードスケート選手の宮部保範が務めた

「完走率は50%」の伸び悩みからインターハイ2冠へ

 夏でも日々、氷の上でトレーニングできる帯広近郊と違って、新濱の育った地域のスケートシーズンは短い。数日の合宿で夏場に氷上練習をすることはあっても、雪が降り地元のリンクに氷が張るまでのトレーニングは、陸での練習が主だった。

「中学の時には、釧路のリンクまで保護者に交代で送ってもらっていましたが、それでも氷に乗れるのは11月からです」

 スピードスケートに限らないが、技術が伴わなければ競技力は上がらない。氷の上を滑るという、日常では体験しがたい動きを高めるには、氷の上で研鑽(けんさん)を積むのが一番だ。動きの似ているローラースケートや、姿勢や使う筋肉が近いとされる自転車を使ったトレーニングであっても、氷の上で技術を身につけるのに比べると難しさがある。

 少年時代に氷と接する機会の少なかった選手は、一見、技術系のスキルを獲得しやすいとされる時期を逃していると思える。しかし、反面、技術獲得に貪欲で後年、力を伸ばす余地に溢れる原石ではないかとも思う。

 新濱は、リンクがあり練習環境が整っている釧路市内にある、釧路商業高校に進んだ。

「高校1年の時は一気に練習環境が整って、練習量も質も変わったので、自分のなかで伸びたなっていう実感はありました。ただ、それに満足することはなくて、さらに伸ばそうって思っていました。なのに、2年の時は、勝てる自信はあっても、なんでこんなにうまく滑れないんだろうというくらいひどい成績で。2レースに1回くらいは転倒したり、コース侵害で失格したりして、まともにゴールラインをきれなかった。完走率は50%ぐらいでしたね。

 悔しい思いがあったので、3年の時には、何かを変えないといけないと思いました。当時はインターハイで勝ちたい気持ちが大きくて、スケート部の顧問だった中嶋(謙二)先生といろいろ試行錯誤しながら、コーナーワークの技術アップを中心に取り組みました。まだ身についていない技術や体力を、一から新たにつくり直していき、インターハイで2冠(500m、1000m)を獲ることができました」

 インターハイで勝ちたいと強く思っていた新濱は、恩師との二人三脚で結果を出し、次へのステップを踏み出した。そして、幼少の頃から父や周りの漁師に憧れ、自身も漁師になるつもりだった新濱に新たな目標が生まれた。もっとスケートをやりたいーー。

(インタビュー中編につづく)

【profile】
新濱立也 しんはま・たつや 
スピードスケート選手。高崎健康福祉大学職員。1996年、北海道野付郡別海町生まれ。3歳からスケートを始め、釧路商業高校3年の時、インターハイで500mと1000mで優勝。高崎健康福祉大学進学後、2019年3月のW杯最終戦・男子500mで33秒79を出し、当時の日本記録を大幅に更新。2020年2月の世界選手権スプリント部門で優勝。2022年2月の北京五輪は男子500mで金メダル候補とされたが、20位に終わった。

宮部保範 みやべ・やすのり 
元スピードスケート選手。1966年、東京都生まれ。父親の転勤に伴い、北海道や埼玉県で学生時代を過ごす。埼玉・浦和高校、慶応義塾大学を卒業後、王子製紙に進む。1992年アルベールビル五輪に弟の宮部行範とともに出場し、男子500mで5位、1000mで19位。1994年リレハンメル五輪は500mで9位。