新濱立也インタビュー中編今年2月の北京五輪スピードスケート男子500mで金メダル候補とされながら、スタートでバランスを崩すミスにより20位に終わった新濱立也(高崎健康福祉大学職員/25歳)。それから少しの時を経て、これまでのスケート人生や五…

新濱立也インタビュー中編

今年2月の北京五輪スピードスケート男子500mで金メダル候補とされながら、スタートでバランスを崩すミスにより20位に終わった新濱立也(高崎健康福祉大学職員/25歳)。それから少しの時を経て、これまでのスケート人生や五輪の戦いをどう振り返り、未来をどう展望するのかーー。自身もスピードスケート選手として2度の五輪出場経験がある宮部保範が、新濱が働く高崎健康福祉大学を訪ねた。中編では、世界で戦う力をつけていった大学時代から競技スタイルに話がおよんだ。



職員を務める高崎健康福祉大学でインタビューに応じた新濱立也

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大学時代に磨いた規格外のパワー

「高校卒業後の進路は、スケートに一番没頭できそうな健大(高崎健康福祉大学)を選びました。もともと漁師になるつもりだったので、学科選びは何から手をつけたらいいのかわからず大変でした。そこで在校生や先輩から話を聞いて、どこなら4年間やっていけるかなと考えた結果、社会福祉学科に決めました」

 新濱立也が入学した当時、高崎健康福祉大学のスケート部員数は10人ほどと多くはなかった。しかし、かつてナショナルチームを率いた入澤孝一氏が立ち上げた部は、創部して日が浅かったものの、戦績も上がり軌道に乗りつつあった。そのタイミングで入部したのが新濱であり、女子チームパシュート代表メンバーとして活躍する佐藤綾乃であった。

「最近では、1学年で10人前後が入部しています。トレーニング環境や設備に恵まれていて、大学の理学療法の先生に動作分析のデータを取ってもらったりもできます。部員の多くは、理学療法士や管理栄養士といった資格を取って卒業するので、4年になるとけっこう忙しいんです。だから部は3年がキャプテンになって運営しています。僕の場合、4年でナショナルチーム入りして資格というよりスケート最優先でしたが」

 3年のキャプテンを中心にメニューを組み、トレーニング場のレイアウトまで学生たちが自ら使いやすいように変える。新濱や佐藤が大学に入って急成長しているだけに、監督の指示の下で選手は管理されているのではないかとも思ったが、そうではなかった。

 最新のワットバイクから使い込まれたパワーマックスといったマシンがずらりと並ぶトレーニング室の隣の教室では、新入生を交えた部員のトレーニング計画づくりが楽しそうに行なわれていて、それを新濱が微笑ましく見守っていた。

 今では、生活のほとんどをナショナルチームの一員として過ごし、大学のある群馬県高崎市にはあまりいないという新濱だが、大学に入ってからの3年間は、そのトレーニング室で自らの限界に挑み続けた。

 そういえば、新濱が高校時代に自転車エルゴメーター(自転車型トレーニング機器)のペダルを破断させたという噂を聞いたことがある。聞けば、大学に入ってさらに少年の頃から好きだった自転車の力に磨きがかかったようだ。ワットバイクのピークパワーテストでは、一般的な短距離選手が1800〜1900ワットというなか、2400〜2500ワットのスコアを記録している。

「パワーテストは機械が相手なので、やり方次第で数値は出せるというのはあります。もちろん自分は小学生の頃から自転車に乗っていて、パワーだけじゃなくて自転車の漕ぎ方がある程度身についているというのは関係しているとは思います。ただスケートに必要なミドル系のパワー値を上げるのは難しいです」



新濱が体づくりに打ち込んだトレーニング室にて

膨らんでいく周囲の期待

 大学3年の冬、新濱は平昌五輪の代表を狙って選考会に臨んだ。結果は男子500mで4位と代表には届かなかったが、トップとの差は0秒1と代表になった社会人選手3人に肉薄した。2010年バンクーバー五輪のあと、若手の台頭に飢えていた男子500mの次代を担うのではないかと、新濱への周囲の期待が膨らんでいった。

「(選考会で4位となり)平昌のあとナショナルチームに招集されました。大学4年でしたが、チームに入ってまず感じたのはメンバー同士が本当に刺激し合っているなと。いろんなタイプの選手が集まっていて、そこに(タイプの違う)自分が入った。自分にとってもチームにとっても、新たな刺激になったと思います」

 たしかに、新濱が入る以前の男子ナショナルチームは、女子チームが世界で活躍する一方で、どことなく閉塞感が漂っていた。バンクーバー五輪でふたつのメダルを獲った男子500mは、続くソチ、平昌ではメダルに届かなかった。

「ナショナルチームでは、お互いを高め合う効果があると思います。この選手は自転車が強いとか、あの選手はウェイトが強いというふうに練習メニューひとつとっても、メンバーごとに強い弱いがあって、自分の弱いところを引っ張ってもらったり自分が得意な自転車では逆に引っ張ったり」

 とりわけ自転車が好きな新濱にとって、自転車でのトレーニングを重視するオランダ人コーチ、デニス・ファンデルガン氏の率いるチームに加入できたことは、自身の能力を開花させる絶好の機会だった。

「自転車のトレーニングでは、スプリントチームでも長い時には100kmのロード、インターバル系のメニューもあれば、坂をひたすら登ったりと本当にいろんな乗り方をしていますね。中学の頃は、少年団の保護者やコーチから、1000mではバッテリー切れになってすぐに脚が止まっちゃうので、『100均電池』って言われていていたんです(笑)。なので、正直自分に1000mの才能があると考えたこともなかったんですが、ナショナルチームに入ってから、1000mでもやれるようになった。チームに入ったことによって筋持久力やミドル系の力が、一気についたと思います」

 インターバル系のトレーニングでは、6分間で急坂を登り続け、時に1500mや5000mを専門とする中長距離のメンバーと一緒に3時間半のロードへも出た。

カギは「最後の100m」と「リラックス」

 スピードスケートの500mはスプリント種目とされるが、競技時間は30秒以上で、スタート時の爆発的スプリントとミドル系の身体能力を併せ持つ必要がある。高校時代にインターハイで500mと1000mの2冠を獲ったとはいえ、新濱自身、1000m向きではないとも語っている。バンクーバー五輪銅メダリストの加藤条治のように500mに特化してもよいのではないかとも思えるが、なぜ過酷なミドル系のトレーニングを率先して行なってきたのか。

「本当だったら500mに全フォーカスするのがいいとは思うんです。ただ自分が500mというよりは1000m寄りのスケーティングをしているところがあって、要は"走れない"んです。滑らせるスケーティングで、500mを走るのではなく滑っている部分があるので、500mにフォーカスして今以上に脚を動かすと、自分の滑り方が変わってしまう。1000mに出ていないと滑り方が崩れてしまうので、500mも1000mも世界で戦えるようにという意識でやっています。1000mがあるから500mが成長できていると思うんです」

 スピードスケートの500mには、スタートの加速から300mまでを駆け抜けるタイプと、最初のカーブでスピードに乗り最終コーナーを回ってもなお伸びてくるタイプの選手がいる。特に、中長距離の層が厚いオランダの選手は、最後の100mで追い込んでくる。

「スプリンターだけでなくミドルの選手とも刺激し合うなかで、筋持久力が一気に身につきました。ただ自分が大事にしているのは、パワーだけではありません。まず同走の相手に勝つ、勝たなきゃ勝負にならないというのは、常日頃思って練習もそうですし、レースでも大事にしています。まず自分の視界に入っている相手を倒さないと、優勝はできない。一緒に滑る相手に負けないというのが自分のレースの大前提で、そのあとに順位がついてくる。同走に勝って優勝するのを第一目標にしています」

 世界を転戦するうちに、最後の100mが勝負のカギになると新濱は気づいた。たとえ相手がレース後半で伸びてこようとも、自分が最初にミスをしたとしても、体半分を巻き返せる自信ひとつあれば、勝てると感じた。

「最終コーナーを出て体ひとつリードされていると厳しいかなとは思うんですけど、どんな状況でも最後は仕掛けているので、最後の100mが弱い選手だったら差せますし、後半伸びる選手でも体半分くらいなら差せる。今は体半分の差があったとしても自信があるから、最後勝負しにいけます」

 最終コーナーで減速する選手は多い。減速せずとも理想のコースから外れ、タイムをロスする姿はオリンピックでも散見される。トレーニングに裏打ちされた脚への自信と、転倒などでゴールすらできずにいた高校2年の頃から燃え続ける勝ちへの欲求を持ち合わせる新濱だからこそ、レース終盤に勝負を仕掛けられる。

 いったい、どのように最後のコーナーを回っているのか。

「ゴールラインを切れずにあがいて、中嶋(謙二)先生と試行錯誤していた高校時代に気づき始めたコース取りがあります。今でも100%そのコース取りをするのは難しくてミスする場面もまだまだあります。ただ自分の体格やパワーで時速60キロくらいのスピードでコーナーをきれいに加速しながら回ろうと思ったら、カーブの頂点で(コース内側の)ポイントについてしまうと、そこで振られてしまう。なので、頂点より先のエリアを狙ってコース取りをする。そういう感覚をレースで出せるようになったのは、本当にここ数年というか、平昌の選考会前あたりから。それからシニアのワールドカップ(W杯)に出て、どんどん質を上げていきました」

 カーブを回る時には、入り口から出口まで内側のラインに沿ってぴったり回るより、出口にかけてふくらんだほうがスピードを維持しやすい。だからふくらむのは当たり前のことにも聞こえるが、カーブに入るポイントや角度がズレると思い描いたラインどおりに滑れなくなり、コースを逸脱しかねない。かといって、体を倒しカーブに入ってから軌道を変えようとすれば、進行方向に対しブレーキをかけることになって大きな減速に直結する。時速60キロなら100分の1秒で16.7cmほど進むのだから、カーブの入り口で瞬時の判断を誤れば勝負にならない。

 ましてや183cmの新濱のように大柄な選手になればなるほど氷との軋轢は大きくなる。少しのミスをカバーするにも、いちいち大きなブレーキをかけなければいけないから、より繊細なコントロールが求められる。どうすれば最後の勝負を仕掛けられるのか。

「冷静に自分を整理することは心掛けてます。やっぱり最後の100mは、負けていれば、勝たなきゃという気持ちが入ってしまう。だけど気持ちが入りすぎると、逆に力みが出て滑りがバラバラになる。それは加速ではなく、減速に自分から向かっていることなので、冷静に自分の滑りを最後まですると常に考えています」

 ただ、心掛けだけではなかなか難しいとも思う。レース後半、体への負担とスピードがピークに達したところでの気持ちの整理とは、どうすればできるのだろうか。

「とにかく数をこなして、多く経験をするしかないかなと思います。自分が勝てた時に得られる自信をどれだけ多く体験できるかで、冷静に滑らなきゃいけないという感覚を自分の体で覚えられる。たぶん勝っている時は、自分の力以上のものを発揮してると思うんですよ。リラックスしすぎてはいないけれど、ある程度リラックスできているから、力まない。そういったところに気づいてそういう経験を多くこなせば、どのくらいリラックスしていると勝てるかという自分の度合いがわかってきて、少しずつ力まずに気持ちが入りすぎないで滑れるようにはなると思います」

 高校2年で苦しい経験をし、シニアになってから出場したレースで上がり100mでの勝負勘が身についたというが、はたして「数をこなす」と言えるほどの数だったのか。いつの間に奥義とも言えるリラックスへの扉を開いたのか、いささか不思議に思えてならない。

「ナショナルチームに入ったシーズンにW杯選考会で勝って、日本選手で自分ひとりがディビジョンAで滑りました。初めての出場で緊張もしましたし、不安もあったなかでのレースでしたが、なぜか3位になれた。今思えば、その時に無名だったからこそ力むこともなく、本当にリラックスして自分の滑りができたっていうのがあります。それが最初の気づきでしたね。ここまでリラックスして滑れば世界で戦えるんだというのを、体で感じられた。結果として、その勝ちがあったと思います」

 リラックスして試合に臨むカギを手にした新濱は、次々と新たな世界を拓くことになる。

(インタビュー後編につづく)

【profile】
新濱立也 しんはま・たつや 
スピードスケート選手。高崎健康福祉大学職員。1996年、北海道野付郡別海町生まれ。3歳からスケートを始め、釧路商業高校3年の時、インターハイで500mと1000mで優勝。高崎健康福祉大学進学後、2019年3月のW杯最終戦・男子500mで33秒79を出し、当時の日本記録を大幅に更新。2020年2月の世界選手権スプリント部門で優勝。2022年2月の北京五輪は男子500mで金メダル候補とされたが、20位に終わった。

宮部保範 みやべ・やすのり 
元スピードスケート選手。1966年、東京都生まれ。父親の転勤に伴い、北海道や埼玉県で学生時代を過ごす。埼玉・浦和高校、慶応義塾大学を卒業後、王子製紙に進む。1992年アルベールビル五輪に弟の宮部行範とともに出場し、男子500mで5位、1000mで19位。1994年リレハンメル五輪は500mで9位。