「日韓W杯、20年後のレガシー」#21 2002年大会の記憶を訪ねて~「宮城」前編 2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催から、今年で20周年を迎えた。日本列島に空前のサッカーブームを巻き起こした世界最大級の祭典は、日本のスポーツ界に何…

「日韓W杯、20年後のレガシー」#21 2002年大会の記憶を訪ねて~「宮城」前編

 2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催から、今年で20周年を迎えた。日本列島に空前のサッカーブームを巻き起こした世界最大級の祭典は、日本のスポーツ界に何を遺したのか。「THE ANSWER」では20年前の開催期間に合わせて、5月31日から6月30日までの1か月間、「日韓W杯、20年後のレガシー」と題した特集記事を連日掲載。当時の日本代表メンバーや関係者に話を聞き、自国開催のW杯が国内スポーツ界に与えた影響について多角的な視点から迫る。

 史上初の2か国共催となった2002年大会、日本でW杯の熱狂に包まれた開催地は10か所だった。多くのスタジアムが新設され、大会後にはJリーグをはじめ各地域のサッカーの中心地となったが、そこにはどんな“文化”が育まれたのか。日頃から全国津々浦々の地域クラブを取材する写真家でノンフィクションライターの宇都宮徹壱氏が、日韓W杯から20年が経過した今、4か所の開催地を巡る短期連載。「宮城」の前編では、仙台でキャンプを行ったイタリア代表との絆と、日韓W杯を機に発足した街クラブのストーリーを紹介する。(取材・文=宇都宮 徹壱)

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 ゴールデンウィークただ中の5月1日、ユアテックスタジアム仙台で行われたJ2リーグ第13節、ベガルタ仙台VSブラウブリッツ秋田を取材。あいにくの雨模様のなか、私が注目していた選手が2人いた。ベガルタの16番でDFの吉野恭平、そしてブラウブリッツの21番でGKの田中雄大。ただし、両者ともベンチスタートだった。

 1994年生まれの吉野は仙台市出身、95年生まれの田中は名取市出身。2002年W杯当時は、小学3年と2年だったことになる。その後、2人は中学生になると、仙台市にあるA.C.Azzurri(以下、ACアズーリ)に入団。卒業後、吉野は東京ヴェルディユースへ、そして田中は青森山田高校と桐蔭横浜大学を経て、それぞれJリーガーとなっている。

 吉野がピッチに送り込まれたのは、後半24分のこと。スコアは1-1だった。その3分後、ベガルタは勝ち越しに成功。さらに後半33分には、吉野自身もダメ押しのゴールを決めてベガルタが3-1で勝利した。地元の仙台でサッカーと出会い、東京でプロになってからは広島や京都で実績を積んで、2020年に故郷のクラブに帰還。そんな吉野のゴールに、ユアスタのスタンドからは祝福の拍手が降り注いだ。

 2002年の日韓W杯開催から、今年でちょうど20年。日本では28の自治体がキャンプ地となり、出場32か国のうち24か国を迎えている。このうち、最も北に位置するキャンプ地となったのが、イタリア代表を迎えた仙台市。監督のジョバンニ・トラパットーニ、キャプテンのパオロ・マルディーニ、さらには、フランチェスコ・トッティ、フィリッポ・インザーギ、アレッサンドロ・デル・ピエロなどなど、錚々たるメンバーが杜の都にやって来たのである。

仙台の行政と財界がタッグを組みイタリア代表を誘致

 この大会のイタリアは、グループリーグ3試合(札幌、茨城、大分)を1勝1分1敗という、いつものスロースターターぶりで2位通過。しかしラウンド16の韓国戦では、歴史的な疑惑の判定により延長戦の末に1-2で敗れ、なんとも後味の悪い形で大会を去っている。日韓大会でのイタリアについては「悲劇の優勝候補」というイメージを抱いている人も少なくないだろう。

 しかし一方で彼らは、キャンプ地に選んだ仙台にて、今につながる素晴らしいレガシーを残してくれた。それが、吉野や田中のようなJリーガーも輩出したジュニアユースの街クラブ、ACアズーリだったのである。

 ACアズーリは2004年に仙台市に設立。中学3年の春休みには、イタリア遠征をすることでも知られている。このクラブの代表を務めるのが、鈴木武一、66歳。鈴木はブランメル(現・ベガルタ仙台)の立ち上げや、イタリア代表の仙台キャンプ誘致にも深く関与している。まずは、キャンプ誘致の経緯について語ってもらおう。

「行政と財界がタッグを組んで誘致するということで、仙台市から『できれば決勝トーナメントに進出するような強豪を呼びたい』と相談を受けました。その時に僕は『十分に可能性はありますよ』と申し上げました。トレーニングはユアスタ、宿泊は仙台ロイヤルパークホテルがあります。空港だって近い。これだけ環境が良ければ、むしろ強豪国のほうから来てくれると思ったんです」

 優勝候補の筆頭と目されていたこともあり、イタリア代表のキャンプ誘致は新潟の十日町市をはじめライバルは多かったようだ。それでも「意外とすんなり決まりましたね」と鈴木。そこから、イタリア代表を受け入れるための準備がスタートする。ピッチ内を担当したのは鈴木で、ピッチ外のすべてを取り仕切ったのが「フォルツァ・アズーリクラブ」の佐藤章治。のちに両者は、ACアズーリの立ち上げに尽力することとなるのだが、その前に2002年当時のことを鈴木に振り返ってもらおう。

「僕の役割は、トラップのリクエストに応えること。たとえば練習試合の相手を探す時、『これくらいのレベルで』とか『システムは4-4-2で』とか。最初はピリピリしていましたけど、チーム状態が上向いてくると、だんだんアバウトな感じになりましたね。大変というよりも、むしろ毎日が楽しかったです。だって、トラップと毎日ミーティングできるんですよ? デル・ピエロとかトッティとか、僕の肩をぽんと叩いてくれるんですよ? 今まで生きたなかで、一番楽しかったですね(笑)」

 ピッチ内はもちろんピッチ外でも、常にサッカーに集中できる環境を提供するのが、彼らにとっての「おもてなし」。幸いイタリア代表は、仙台でのキャンプに大変満足していたらしい。仙台を離れて韓国に向かう日、監督のトラパットーニは「日本には決勝まで戻ってこられない。横浜に向かう前に、必ず仙台に戻ってくるよ」と語り、鈴木と固い握手を交わしたという。結局、それが別れの握手となってしまった。

イタリア代表が仙台の地に残したもの

 仙台キャンプから1年後の2003年、仙台市長に随行する形で鈴木と佐藤は、ローマにあるイタリアサッカー連盟を訪問。この時、佐藤は当時のフランク・カラッロ会長に、2つの依頼をしている。仙台にジュニアユースのチームを作るにあたり、名称をイタリア代表の愛称にちなんで「アズーリ」としたいこと。そして連盟のエンブレムを模したデザインを、クラブのエンブレムとして使用したいこと──。

「あっさりOKをいただけましたね。なぜジュニアユースだったかというと、中学生年代の環境が県内ではしっかりしていなかったからです。それとイタリアとの関係を大切にしたかった。ワールドカップ以降、キエーボやラツィオがこっちに来てベガルタと試合をしましたけれど、僕らは子供たちをイタリアに連れていくことを考えていました。やっぱり現地のサッカーを体感して、得られるものは大きいですから」

 ACアズーリのイタリア遠征は、東日本大震災があった2011年、そしてコロナ禍による直近の3年間を除いて、ずっと続けられてきた。鈴木は引率するたびに「2002年にイタリア代表を迎え入れた人たちがいたから、君たちはここに来ることができたんだよ」と、子供たちに教えているのだそうだ。

「イタリアに連れて行ったことで、彼ら自身が国際感覚を身につけ、世界との距離も一気に縮まったように感じます。もちろん、レベルの高いサッカーを経験することも大事ですが、それだけではない。スポーツ文化の成熟度であったり、サッカーが生活に根付いていることだったり、そういったことも現地に行くだけで実感できます。いつの日か『日本もこうなればいいな』って彼らが思ってくれると、ありがたいんですけどね」

 イタリア代表のキャンプがきっかけで、仙台にジュニアユースのチームが誕生し、そこからJリーガーが輩出された。これはこれで、一つのレガシーである。

 しかしながら、プロを輩出することだけが、イタリア遠征の目的ではない。アマチュアのまま競技人生を終えたとしても、彼らがイタリアでの強烈な経験を記憶にとどめ、故郷のスポーツ文化の発展に寄与してくれたなら、これほど素晴らしいレガシーはないだろう。

 なお鈴木とともに、イタリア代表キャンプとACアズーリ設立に尽力した佐藤は、2007年に48歳の若さで死去。もともとサッカーの人間ではなかったが、W杯をきっかけにボールを蹴り始め、フットサルを楽しんだ直後に倒れて帰らぬ人となった。ACアズーリの代表は鈴木だが、佐藤には「永久代表」の称号が与えられている。(文中敬称略)(宇都宮 徹壱 / Tetsuichi Utsunomiya)

宇都宮 徹壱
1966年生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」を追う取材活動を展開する。W杯取材は98年フランス大会から継続中。2009年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞した『フットボールの犬 欧羅巴1999-2009』(東邦出版)のほか、『サッカーおくのほそ道 Jリーグを目指すクラブ 目指さないクラブ』(カンゼン)、『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)など著書多数。17年から『宇都宮徹壱WM(ウェブマガジン)』を配信している。