初夏のパリ開催の全仏オープンで、今年、ひとりの"プロ車いすテニスプレーヤー"がグランドスラムデビューを果たした。 彼の名は、小田凱人(ときと)。 自らの名の由来でもある凱旋門がランドマークの町で、5月8日に16歳の誕生日を迎えたばかりの少…

 初夏のパリ開催の全仏オープンで、今年、ひとりの"プロ車いすテニスプレーヤー"がグランドスラムデビューを果たした。

 彼の名は、小田凱人(ときと)。

 自らの名の由来でもある凱旋門がランドマークの町で、5月8日に16歳の誕生日を迎えたばかりの少年は、男子シングルス・ベスト4に食い込む活躍を見せた。



16歳でGSデビューを果たした小田凱人

 伸びた背筋に、強い意志の光を放つ双眸。ヒーロー然とした佇まいの小田は、「病と闘う子どもたちのヒーロー」になることを志し、去る4月にプロ転向を宣言した。

「これからは選手として日本のパラスポーツを盛り上げ、障がいのある子どもたちも活躍できる世の中を作っていける選手になり、今病気と闘っている子どもたちのヒーロー的な存在になれる選手を目指して、頑張っていきたいと考えています」

 それがプロ転向会見で、彼が口にした所信。早くからの活躍を渇望するのも、自分と年齢の近い少年少女たちに希望を与えたいと望むからだ。

 新たな旅立ちの門出で、全仏オープン出場が叶ったのも運命的だ。

 グランドスラムの車いす部門は、世界の上位8名のみが参戦できる狭き門。今年4月時点の小田の世界ランキングは9位で、従来のルールなら一歩届かないはずだった。

 それが、2年後にパリ・パラリンピックを控えていることもあり、全仏オープンは今年から車いすテニスのドローを「12」に拡張。かくしてプロ転向直後に、小田はグランドスラムデビューを果たす。それは、「史上最年少世界1位」を目指す小田にとって、このうえない僥倖だった。

 小田が車いすテニスを始めたのは、10歳の頃である。9歳で発症した骨肉腫のため、左足の自由を失い、それまで打ち込んでいたサッカーはあきらめざるを得なくなった。

 それでも、何かスポーツをしたいとリハビリに励んでいた時、少年はYouTubeで"ヒーロー"を目にする。それが、2012年のロンドンパラリンピックで金メダルを獲得した「国枝慎吾」。その姿に魅せられて、彼はラケットを手にした。

16歳ながら高いプロ意識

 テニスを志した小田の地元に「岐阜インターナショナルテニスクラブ」があったことも、幸運だった。

 現在創設10年の若いこのテニスクラブには、ハードコートと、ジュニア育成コースがある。車いす専用のレッスンがあるわけではないが、小田はその恵まれた施設でジュニア選手たちと一緒に練習する機会を得た。

 天性の運動神経に加え、類まれなる向上心と観察眼が小田を急成長させたのだろう。左利きであることも、勝負のなかでは有利に働いた。

 小田を中学2年の時から指導し、現在はパーソナルコーチも務める熊田浩也コーチは言う。

「もともと運動神経がいいうえに、自分で考える力があります。ほかの子のプレーを見て、どうやったら自分もうまくなれるか工夫しながら練習するので、上達も早いんだと思います」

 そのような"見て考えて実践する"力もまた、環境のなかで培われた能力でもあるだろう。ジュニアたちと時間を共有することで、競技者を目指す同世代の少年たちがどれほど真剣にテニスに打ち込むかを知り、試合前のアップや試合後のクールダウンをする姿も見てきた。

 熊田コーチが就いてからは一層、練習時間を増やしたという。コロナ禍で試合の機会は減ったが、おかげで技の習得や研鑽にじっくり時間をかけることができた。

 そうして試合に出始めた時、次々に勝てるようになったことに、小田やコーチも多少の驚きを覚えたという。自信はさらなる自信と高い目標を生み、14歳にしてジュニア部門の世界ランキング1位にも上り詰めた。そして、15歳でプロ転向。次に視野にとらえるのは、2年後のパリ・パラリンピックでのメダル獲得、そして20歳前に世界1位に座すことだ。

 急成長の疾走感のまま乗り込んだ全仏オープンで、小田は地元選手相手に6−1、6−3のスコアでデビュー戦を白星で飾る。ただ、試合後の本人の表情に、納得の色はまるでない。

「単純に言えば緊張したというか、力が入ってしまった」

「お客さんが見ているなかで、変なミスはしたくないという思いが出てしまった」

 口をつく言葉も、反省の弁ばかり。その背後にあるのは、「プロとして確実に勝たなくては」という責任感。そして、「準決勝、決勝と上がっていくなかで、ああいうプレーをしていたらどんどん差が開く」という、上位勢との対戦の想定だ。

 16歳の年齢や初出場の状況に甘んじることなく、彼は明確に「優勝する」ためにここに来ていた。

国枝慎吾はやっぱり強かった

 その小田が納得の笑みを見せたのは2回戦後。リオデジャネイロ・パラリンピック単金メダリストのゴードン・リード(イギリス/30歳)に快勝したあとのことだ。

「リードは、自分がテニスを始めたころに見た選手。同じ左利きということもあり、参考にさせてもらったことも多かった」

"お手本"の相手に勝てた事実は、自分の成長を実感する何よりの証左になっただろう。

「あらためて考えてみると、5〜6年でここまで来て、彼に勝てたのは素直にうれしいです」

 自らが踏破してきた道を振り返り、彼は感慨深げに言った。

 だが、小田の快進撃は翌日、2−6、1−6のスコアの敗戦で止まる。敗れた相手は「国枝慎吾」。いわば、小田のテニスキャリアの原点だ。

「あらためて、強かったなと率直に思います」

 素直に相手を称えた小田は、国枝の強さのわけにも言及する。

「細かいところで言えば、ショットの深さだったり......サービスエースをかなり取られたのもあるし。自分はああいう舞台で身体が動かなかった。そこで力の差も感じました」

 そのうえで彼は、自分に言い聞かせるように言った。

「国枝選手に勝たないと、ランキング1位も見えてこない。どこかで攻略法を見つけて、戦っていかなくてはいけないと思っています」......と。

 ベスト4の結果にも「本気で優勝を狙いにきていたので、どこで負けようが一緒なのかなと思います」と、小田は目いっぱい悔しがった。その悔しさもまた、この舞台に来たからこそ得られた財産。

 それら両手に抱えた手土産を、2年後のパリ・パラリンピック、そして世界1位へと至る原動力とし、小田凱人はこれから幾度も凱歌を奏でるはずだ。