萩原秀雄氏インタビュー後編、縁もゆかりもない埼玉で指導者人生をスタート 埼玉県坂戸市の部活動指導員として、同市立桜中学校男子バレーボール部を指導する萩原秀雄さん(78歳)は、Vリーグ男子2部・埼玉アザレアの部長でもある。かつては日本バレーボ…

萩原秀雄氏インタビュー後編、縁もゆかりもない埼玉で指導者人生をスタート

 埼玉県坂戸市の部活動指導員として、同市立桜中学校男子バレーボール部を指導する萩原秀雄さん(78歳)は、Vリーグ男子2部・埼玉アザレアの部長でもある。かつては日本バレーボール協会の強化事業本部長や専務理事も歴任。埼玉県の保健体育科教諭として指導者のキャリアをスタートさせ、川越高校と坂戸西高校で計39年、男子バレー部の強化と育成に尽力した部活動指導の第一人者だ。後編では萩原さんのキャリアを振り返りながら、部活動のあるべき姿について話を聞いた。(取材・文=河野 正)

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 日本体育大学のバレー部主将だった萩原さんは、実業団でプレーすることを希望していたが、どこからも声がかからなかった。そんな折、大学の大先輩から埼玉県の教員になるよう要請された。1967年の第22回国民体育大会(国体)の開催地は埼玉で、教員男子チームは本気で初優勝を狙っていた。

 その大先輩というのが、埼玉県立久喜高校を国内屈指の強豪に育て上げ、全国高校選手権(現・全日本高校選手権)や全国高校総体を計4度制した稲山壬子監督だ。教え子の吉田真理子は、76年のモントリオール五輪金メダリスト。64年の東京五輪では、強化コーチとして初の金メダル獲得に貢献した名伯楽である。

「東京・高田馬場で生まれ育った私が、縁もゆかりもない埼玉で、しかも考えたこともなかった教員になり、指導者人生を送るのですから、人の運命は分からないものですね。国体は決勝で岐阜教員にストレート勝ちして優勝し、強化選手としての責任を果たせました」

 66年4月の初任地が、2015年にノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章氏の母校、県内屈指の進学校である川越高だった。バレーの強豪校を望んでいただけに赴任当初はがっくりきたが、やがて文武を見事に両立させる選手に驚かされ、「教える立場の自分が生徒から多くを学んだ」と述懐するまでになる。

 76年の川越高は史上最強で、第7回全国高校選抜優勝大会(現・全日本高校選手権)と佐賀国体に出場。3年生の主力5人は国体で10月末まで練習していたが、東京慈恵会医大、北海道大、筑波大、都留文科大、慶応大に全員が現役で合格。東京慈恵会医大の松藤千弥学長は、当時のメンバーである。関東高校大会には9度も出場した。

教え子や元コーチが驚く「観察力」と情熱

 川越高に勤務して痛感したのが、賢い生徒は部活動も勉強も時間を有効に使い、目標を持って取り組むということだ。「目標なしにやっていても効果がないことを思い知った」と話し、こんな裏話を披露する。

 持久力養成のため鉄棒を取り入れ、そのうち懸垂のデータは5回、10回、15回と数字が推移した。「まず5回を目標値に設定し、クリアしたら10回、さらに15回と5回刻みに増やしていたんです。川越高に14年勤務したおかげで、指導者として成長させてもらえました」と感謝する。

 80年4月の人事異動で開校2年目の坂戸西高に転勤。新設校で選手は揃っていなかったが、前任地での経験があるので1年目からやれる自信、手応えはあったそうだ。6年目に初陣の関東高校大会でいきなり4強入りし、7年目には全国高校総体に初出場。“春高”(全日本高校選手権)は、88年の第19回大会2回戦で初出場ながら優勝した崇徳(広島)と競り合いを演じている。

 退職した05年までの25年間で春高を4度、全国高校総体を9度経験。教員生活晩年は全国高体連バレーボール専門部強化委員長、同専門部長、第31回大会から春高バレーの大会実行委員長を5年務めた。春高にはマネジャー登録でベンチ入りしたが、「監督のつもりで審判に抗議したら『先生は監督ではありません、下がってください』って怒られちゃってね」と笑った。春高は監督の立場というより、高体連や大会事務局としての関わりのほうが深かった。

 坂戸西高での思い出も数え切れず、勝っても負けてもいろんな選手や試合が目に浮かぶそうだ。なかでも、揃って日本代表に上り詰めた兄・裕太(東レ)と弟・達也(サントリー)の米山兄弟を育て上げたことは、自慢の一つでもある。「2人とも上背はなかったが、能力はとてつもなく高かったですよ。一番いい選手をつくれた」と振り返る。

 裕太は専門誌に「バレー人生で一番思い出に残る監督が萩原先生。夜中まで続いた練習で今の自分をつくっていただいた」と記す。達也もチームの公式サイトに「仲間への思いやり、団体スポーツの基本など高校時代の教えが今の土台になっています」と綴っている。

 現在、坂戸西高を率いる徳留清智監督は、萩原さんの下で9年間コーチを務めた。東京学芸大学2年の長男・聖大さん、長野・松本国際高校2年の二男・巧大さんはともに桜中で萩原さんの薫陶を受け、兄は2年連続で全国中学校体育大会出場。弟はコロナ禍で大会中止が相次いだが、強豪の松本国際高では1年生から主力として活躍する逸材だ。

 徳留監督は「どの選手も細かく観察しているのが萩原先生の凄いところ。この選手の適性はどうなのか、どんな教え方をしたら上手くなるのかなど、将来のことを見据えながら指導しています。情熱も坂戸西の頃と少しも変わっていませんね」と名将の横顔をこう紹介した。

部活指導歴50年、名伯楽が語る「あるべき姿」

 昨今、教員の長時間勤務が常態化したこともあり、教員不足と志願者の減少が深刻だ。文部科学省は今年1月31日、教師不足に関する実態調査の結果を公表。昨年4月の始業日時点で、全国の公立小中高校・特別支援学校へ配置された教員は、定数より2558人少なかった。中学は868人、高校は217人だった。

 少子化と専門教師の不足、顧問の長時間労働が重なり、部活動の危機が叫ばれて久しい。スポーツ庁は18年3月、「運動部活動の在り方に関する総合的なガイドライン」を策定し、検討を重ねてきた。20年9月には、学校の働き方改革を踏まえた部活動改革の方策と時期を明示。同庁の有識者会議は今年4月26日、「運動部活動の地域移行に関する検討会議」を開き、公立中学の休日の部活動指導を学校から民間団体などに委ねる「地域移行」を23~25年度の3年間で推進する提言案を示した。

 高校で39年、中学で11年、計50年も部活動に携わる萩原さんは、部活動のあるべき姿や今後についてどんな所感を抱いているのか。

「部活動は学校教育の一環、人間教育の場なので存続してほしいが、これからは“クラブ化”が進んでいくのではないか。文科省は来年度あたりから部活動という形態を残しながら、その中にクラブチームを組み込むシステムを考えているんだと思います。そうすることによって低迷する競技を活気付けようという狙いもありますね。今はその移行期。どういうやり方にしても、本来スポーツのあるべき姿は、人間づくりだということを忘れずに続けていくことですよ、それがこれからも変わらぬ部活動のあり方。指導者はそういう意識を持ってやってほしい」

 坂戸西高時代の米山達也は1年生なのに、1年生が担当するネット張りやドリンクづくりを手伝わなかった。主力というおごりからだ。雷が落ち、大目玉を食らった。

「上達できるのは裏方のおかげ、仲間がいるからだ」

 原点にあるのは人間づくり。これこそ50年に及ぶ指導者として、教員としての萩原さんの拠りどころだったのではないか。(河野 正 / Tadashi Kawano)