今季ふたつ目のグランドスラムである、全仏オープンの開幕前日......。多くの人々の感情を絡めとり、多方面に余波を広げながら、ひとつのニュースがテニス界を駆けた。 男女のプロテニスツアーの運営団体であるATP(男子)およびWTA(女子)が…

 今季ふたつ目のグランドスラムである、全仏オープンの開幕前日......。多くの人々の感情を絡めとり、多方面に余波を広げながら、ひとつのニュースがテニス界を駆けた。

 男女のプロテニスツアーの運営団体であるATP(男子)およびWTA(女子)が、6月末に英国で開催されるウインブルドン選手権に「ランキングポイントを付与しない」と発表したのだ。これは、ウインブルドンがロシア及びベラルーシ選手の同大会出場を禁じたことへの、対応策の一環である。

 ひとつの大会の方針を巡り、なぜこのような内部対立が起こりうるのか? それを理解するには、テニス界に存在する複数の運営団体や組織と、世界ランキングの構造を知る必要があるだろう。



ジョコビッチは世界1位の座から陥落する可能性大

 年間を通じて世界各地で開催されるテニスの「ツアー大会」は、ATPおよびWTAによって運営されている。対して、「グランドスラム」もしくは「メジャー」とも呼ばれる四大大会は、基本的に開催国のテニス協会が主催者だ。

 ただし、ウインブルドンを運営するのは、大会会場であるオールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ(AELTC)。あくまで、プライベートのスポーツクラブが手綱を握っているのである。

 テニス選手の強さの序列である「ランキング」を規定するのは、ATPおよびWTAが定めるランキングポイント。選手たちは出場した大会の結果に応じてポイントを獲得し、それらを積み上げながらランキング上昇を目指す。

 そして、このランキングポイントの制御権を持つのは、ATPとWTAのみ。ウインブルドン選手権の場合、大会の主催・運営権はAELTCが持っていても、ポイントを選手に与える権利はAELTCにはない。

 選手が大会に参戦する時、なにより重要視するのはランキングポイントだ。

 もちろんプロである以上、賞金が欠かせないのは間違いない。ただ、ランキングが上がれば、より賞金総額の高い大会に出場できるようになる。ランキング上昇に伴う知名度や露出の向上は、スポンサーの獲得にもつながるだろう。

 つまりは長期的視座に立った時、目先の賞金以上にランキングポイントは経済的な価値も持つ。それが「ランキングポイントはテニス選手にとっての"通貨"だ」と言われる所以だ。

差別廃絶を理念に掲げるWTA

 今回、ATPおよびWTAがウインブルドンにポイントを与えないのは、その通貨を用いたある種の「経済制裁」だとも言える。

 今年4月下旬、AELTCはロシアのウクライナ侵攻を受け、今年のウインブルドンにロシアとベラルーシ選手の出場を禁ずると発表した。それに対してATPとWTAは、即座に強い遺憾の意を表明している。

 とりわけ、あらゆる差別廃絶を組織の創設理念に掲げるWTAには、その意識が強い。かくして冒頭に触れたように、WTAとATPは先日揃って今年のウインブルドンにポイントを付与しない決断を下した。その際にWTAは「平和の実現をなにより願う」と前置きしたうえで、次のような声明を出している。

「WTAは約50年前に、すべての人々が一切の差別を受けず競えることを理念に創設された。個人として参戦する選手が、国や政府の決断に影響を受けてはならないと信じている」

 同じくATPも、「あらゆる国籍の人々が利潤を求め、いかなる差別も受けずに参戦できることが、我々のツアーの理念である」と続いた。

 これら一連の決定は、当然ながら、あらゆる選手たちにさまざまな形で影響を及ぼしている。

 純粋に、ポイントとウインブルドンが有する威光や賞金を天秤にかけ、判断材料とする選手もいる。大坂なおみ(24歳)は「ランキングが上がらないならモチベーションは上がりにくい」と言い、「出ないほうに心は傾いている」と欠場を示唆。一方、フランスのブノワ・ペール(33歳)のように、ポイントなしの決断に怒りを露わにするも「賞金があるから出る」という選手もいる。

 ただ、今回のケースが難しいのは、ウインブルドンへの出場・不出場の表明が、政治的な意思表明にもつながりかねない点だ。

 その意味で難しい立場に立たされたのが、女子世界1位のイガ・シフィオンテク(20歳)である。ポーランド出身の彼女は、ウクライナ支持の声を最も公(おおやけ)に上げてきた選手だ。ただ、"WTAの顔"としては同団体の決断をあからさまには批判しづらい。

ジョコビッチは最大の被害者

 シフィオンテクはこう話す。

「ポイントがつかないことは、それほど問題ではない。私にとって大きいのは、政治的な側面。ポーランドはウクライナをサポートしてきたし、戦争は私たちの国のすぐとなりで起きているのだから」

 慎重に言葉を選びながら会見で語る彼女は、「決定権を持っている人たちは、みんなひとつにまとまり、力を合わせてほしい。現状では、それぞれが別の方向を見ているように見える」とこぼした。

 現在の男子1位でセルビア出身のノバク・ジョコビッチ(35歳)は、「ウインブルドンの行為は誤りだ」と、かねてからの主張を繰り返す。ただ、ポイントなし処置の最大の被害者は、前年優勝者のジョコビッチだ。

 昨年のウインブルドンで獲得したポイントは、1年後に失効する。そのため彼は、ポイントを守るチャンスすらなく、1位陥落の可能性があるからだ。その点に関してはジョコビッチも、「自分個人としては、ネガティブな影響が大きい」と現状を認識する。

 同時に、かつて選手評議会の会長を務め、現在は自らが立ち上げた「プロテニス選手会」代表であるジョコビッチは、大局的な見地に立って、こうも語る。

「ATPと選手たちが一体になり、グランドスラムに対しても、我々は力を行使すると示せたことは意義がある」

 さらには、「数日前に知ったことだが、英国政府からAELTCに向け、いくつかのオプションが示されていた」と明かし、こう続けた。

「なのに彼ら(AELTC)は、ATPや選手たち、ロシアやベラルーシの選手にも、まったく相談してこなかった。お互いの立ち位置をすり合わせ、妥協点を見いだそうとしなかった」

 かようにウインブルドンを鋭く糾弾したジョコビッチだが、一方で「ウインブルドンは自分にとって、子どもの頃から夢のトーナメント」とし、出場の意向をほのめかしている。

 なお、ジョコビッチのポイント喪失によって世界1位の座につく可能性が高いのが、ロシアのダニール・メドベージェフ(26歳)。皮肉なこの見通しに、現世界2位も「正直、奇妙な感じだ」と苦い笑みをこぼした。

ウクライナ選手は怒りのツイート

 ウインブルドンにポイントを与えないことにより、APTとWTAはロシアとベラルーシの選手を擁護する姿勢を示したことになる。

 その動きを、声を大にして批判するのは、ウクライナのマルタ・コスチュク(19歳)だ。ロシア糾弾の先鋒的存在である彼女は、ロイター通信社の取材に対して「今回の決断を下すにあたり、私に意見を聞きにきた人は誰もいなかった。まるでウクライナの選手は存在しないようだ」と嘆いた。

 また、最高13位の元トップ選手で、兵として前線に赴いたウクライナのアレクサンドル・ドルゴポロフ(33歳)は、ツイッターで「上出来だよ、ATPとWTA」と皮肉のつぶやき。「ウインブルドンからポイントを取り上げて、ロシアのプロパガンダを喜ばせたよ」と、行間に怒りをにじませた。

「スポーツに政治を介入させてはいけない」とは、よく耳にする惹句。だが、スポーツと政治が不可分であることは、今や誰もが知る現実だ。

「スポーツは常に政治に利用されている。そして私たちは、ある意味で公的な存在であり、世間にインパクトを与えることも事実」

 著名アスリートとしての責任を、シフィオンテクは重く語る。

 コロナ禍が明け、かつての華やぎを完全に取り戻したかに見える全仏オープン会場の赤土に、戦争の影は、じりじりと染み込むように広がっている。