クロスカントリースキーのレジェンド、新田佳浩。1998年長野パラリンピックに初出場して以来、世界も認める美しいフォームで雪原を疾走し、2018年平昌大会までの6大会で金3個を含むメダル5個を獲得している。7大会目のパラリンピック出場を果たし…

クロスカントリースキーのレジェンド、新田佳浩。1998年長野パラリンピックに初出場して以来、世界も認める美しいフォームで雪原を疾走し、2018年平昌大会までの6大会で金3個を含むメダル5個を獲得している。


7大会目のパラリンピック出場を果たした新田佳浩(左)と急成長を遂げた川除大輝

7大会目となった北京大会は「集大成」として臨み、男子20kmクラシカル(立位)で7位、同スプリント(立位)で8位と入賞は果たしたが、目指していたメダルは逃した。大会最終日、後輩の川除大輝と組んで出場したオープンリレーも7位入賞に終わった。

だが、全レース終了後、「スッキリしました」というコメントと表情が印象的だった。その胸のうちと、この先に見据えるものとは?

* * *

――北京大会から約2カ月が経ちました。あらためて、どのような大会でしたか?

「僕にとって、いい意味でも悪い意味でも、ターニングポイントとなる大会だったことは確かです。川除選手が金メダルを獲って、バトンが渡せたことはよかったです。誰にバトンを渡そうかとずっと考えながら選手を続けてきた面もあったので、それができたのはすごくうれしいです。

 ただ、今、振り返ると、『悔しいな』という思いもあるのが現実です。『次に向けて頑張ろう』とは、まだ思えませんが(笑)」

――悔しい気持ち、ですか?

「大会自体は悔いなく戦えたし、やれることはやったと思います。でも、シーズン全体を通してしっかり準備ができて大会に臨めたのかと考えると、違うなとも感じています」

――平昌大会で金メダル獲得後も現役を継続し、この4年間はさまざまなチャレンジをされたと聞いています。

「コロナ禍の影響もあり、ここ2年ほどはしっかりと練習できたという実感があまりなく、自分自身では納得できていません。年齢を重ねて体調的にもいいときとよくないときがあって、そのコントロールはすごく難しかったです。

 とくに、北京大会の1カ月前頃から急に心拍数が上がらなくなり、追い込んだ練習ができなくなりました。原因がわからないまま大会に臨むことになってしまったのは非常に残念でした」

――新田選手のような四半世紀以上にわたる長い競技生活ではアップダウンもあったと思います。挑戦を支えた原動力とは? 

「スポーツでは負けたり、記録が破られたりは当たり前です。でも、科学的な知見を取り入れるなど考え方や取り組み方を変えることで、パフォーマンスが上がる可能性もあると僕は信じています。それが原動力ですね。

 たとえば、息子の靴の裏を見たら、つま先部分がすごく削れていたので、どんなふうに走っているのかなと考えたのが、(ここ数年で取り組んだ)フォアフット走法(※)のヒントになりました。体力のある大人は不自然なフォームでも無理して走れますが、おそらく子どもは無理のないフォームで走っている。それが効率よく速く走れるフォームかなと。子ども時代の僕自身もきっとやっていたはずの走り方を思い出してみようと思ったのです」
※足のフォアフット(つま先)部分から着地する走り方で、陸上強豪国のケニアなどアフリカ系の選手に多く見られる

――さまざまなヒントや工夫で広がる可能性を感じていたことが、長く頑張れた原動力だったと。

「後輩から学ぶこともあるし、他競技の年下のオリンピアンに話を聞いたこともあります。ステップアップには常に前向きなマインドを持ち続けることが大切でしょう。

 年齢によって失われていく能力もありますが、競技者としてやっている以上、負けたくないという思いはなくしたくありません」

――負けたくない、ですか?

「もちろん、努力しているという前提があってのことですが、自分の能力に自信をもっているし、正しいと思ってやってきた成果を試合では最大限に出したいし、出せると思っています。だからこそ、負けたくないですね。

 それに、子どもたちがずっと、僕が1番になると思ってくれているのも、大きな力です」

――そういえば、これまで金メダル獲得のたびにモチベーションについて伺った時、最初はおじい様で、その後はご家族、特に息子さんたちを挙げていました。では、この4年間は?

「『チームのために』が、大きかったです。平昌大会までは僕自身の順位を求めて、ひとりでトレーニングすることが多かったですが、この4年間はチーム作りも考えて、『一緒にやろう』と僕のほうから後輩たちに声をかけるようにしました。一緒に滑って気になった部分があれば伝えたり、僕のやり方を助言したり、チームとして取り組むことが増えました。

 また、昨シーズンに関しては、阿部(友里香)選手から直接、『教えてほしい』と言われたので、技術的なことをいろいろ伝えました」

――手ごたえはありましたか?

「北京では自分のメダル獲得以上に、他の選手それぞれが納得する形で大会を終えることを願っていたし、実際、大会後に皆、『よかった』と言っていたので、うれしかったです。

 大会後には、選手たちから『新田さん、(選手を)辞めないでください』と言われたり、阿部選手からも『イタリアまで一緒にやってほしい』と言われて、必要とされていることを今、うれしく感じています」

――川除選手という、後継者も誕生しました。

「彼は今まで、僕の陰に隠れて遠慮がちなところがありましたが、この1年で姿勢や発言も大きく変わってきた印象がありますし、金メダルを獲得してさらに自信になったようです。これからはチームの大黒柱としてやっていくべき選手ですし、もっと成長するタイミングだと思うので、楽しみです」

――メダリストとともに、チームリーダーの継承という意味で、川除選手にアドバイスはありますか?

「今は少し自信を持ちすぎな部分も見受けられますが、まずは、のびのびとやりながら、しっかり結果を出すことを目指してほしいですね。

 ただ、今は学生で、スキー部という基盤がありますが、社会人になると時間が制約され、練習環境も変化します。いろいろ工夫が必要な状況になったときに真価が問われると思います。

 僕自身も経験しましたが、(競技歴が)8年も経つと、周囲は知らない人ばかりになり、目標も失われがちになります。そういうなかで結果を求められるのは苦しいものです。ただ、重要なのは本人自身が考え、何を選択するかです。僕自身の経験は伝えながら、見守っていきたいと思っています」

――チームとして、1998年の長野大会からつづく「メダル獲得の歴史」がつながったことも大きかったのでは?

「僕が選手を長く続ける意味のひとつだったので、今回、ストーリー的にはめちゃくちゃきれいな形でしたね。

 最後のオープンリレーはひとりが2回走ることになり僕はプレッシャーも大きかったのですが、川除くんとふたりだったからこそ、思いをつなぎ合うことができ、思い入れの強いレースになりました。

 僕はこれまで、『最後まであきらめない滑りの大切さ』をずっと言ってきましたが、川除選手が(フィニッシュ直前に)ドイツの選手を交わし7位に上がったことで、僕が伝えたかったことを体現してくれました。その思いもバトンパスできて、よかったです」

――いい締めくくりとなったようですが、ご自身の今後についてはいかがでしょうか?

「今、いろいろ模索しているところですが、選手兼コーチとしてチームに残ろうと考えています。選手としてはやることはやって満足していますが、長い選手経験のなかで考えてきたこともあるし、選手だからこそ伝えられる部分もあるかなと。選手とコーチをつなぎ、両方の意見を聞ける立場として調整役を担えればと思います」

――試合にも出ながら?

「試合にも、出ます。ただ、僕自身に課した思いとして、メダルが獲れない選手は選手としてやる必要がないと思う部分はあります。そのなかで、選手兼コーチとしてやりながらメダルが獲れると思えば続けるかもしれません。

 これからの僕の役割は、メダルの可能性がある若い選手を引き上げてあげることだと思います。現状はなかなか厳しいですが、川除選手以外の選手もメダルが獲れるチームにしていくために、これまでのやり方を変えるのはこのタイミングかと思います。僕は選手兼コーチとして新しい提案をしていければと考えています」

――たとえば、どのようなことを?

「ひとつは若い選手の発掘・育成です。川除選手を脅かすような存在の選手をつくっていくことが重要なポイントだと思っています。僕の経験から言っても、ひとりだけのエースは苦しいですから、何らかの形で携わっていけるように今、準備をしています。

 また、夏季競技の選手のスカウトも考えています。身体能力も高いし、いろいろな経験をしたうえでの新しい挑戦には可能性があります。異なる刺激を入れるクロストレーニングの一環としてスキーにも取り組み、試合にも出てくれるような関係性を作れたらなと」

――二刀流の選手ということですね。

「とくに、シットスキーの強化に関してはコーチとしてもっと大胆なこともやっていけたらと思っています。車いすの選手はもともとある強い上半身が技術的な部分を補ってくれるので可能性があると感じています。

 また、今までできていなかったシットスキーの軽量化など道具の開発にも取り組めば伸びしろももっとあるはずです。JISS(国立スポーツ科学センター)なども活用して、強化のいい循環を作っていきたいです」

――他にはどんなことに取り組んでいこうと考えていますか?

「阿部選手と話していて気づきましたが、女性の場合は生理の問題や出産後のサポートなども必要でしょう。阿部選手と二人三脚でチーム全体の底上げもはかっていけたらと思っています。

 若手の発掘と道具の開発、さらに、二刀流選手の参加で競争が生まれる日本チームなら、もっと強くなれるという構想が僕のなかにはあります。そのための土台や仕組み作りに今、取り組み始めたところです」

――ますます、忙しくなりそうですね?

「選手専念のほうがラクだったとは思います(笑)。でも、だからこそ、楽しみでもあります」

――レジェンドの新たな挑戦を、私たちも楽しみにしています。ありがとうございました。