アイルトン・セナ、人間味あふれる伝説(前編) アイルトン・セナ。F1ワールドチャンピオン3回、優勝41回、ポールポジション65回。歴史に残る名ドライバーだった。その彼が34歳で亡くなったのは1994年5月1日。私もあの日、イモラのサーキット…

アイルトン・セナ、人間味あふれる伝説(前編)

 アイルトン・セナ。F1ワールドチャンピオン3回、優勝41回、ポールポジション65回。歴史に残る名ドライバーだった。その彼が34歳で亡くなったのは1994年5月1日。私もあの日、イモラのサーキットにいて、セナの生存を願い、祈るような気持ちで立っていたひとりだった。

 セナはブラジルの英雄である。彼が亡くなった時、ブラジル中が悲しみ、その葬儀は国葬扱いだった。数々の栄光に悲劇的な死が重なり、時が経つにつれ、彼は聖人君子のように思われるようになった。しかし、セナは決して完全無欠のヒーローではなかった。



1994年5月1日に亡くなったF1ドライバー、アイルトン・セナ photo by AFLO

 セナは皆が想像するような、陽気なブラジル人とはかけ離れていた。とても思索的で、哲学的だったとも言える。他の人間とは異なる視線を持っていた。

 セナとは何度か話をしたことがあるが、そのインタビューは他の誰のものとも違っていた。彼は質問に対し、シンプルに「Yes」「 No」で答えることはほとんどなかった。そんなところはサッカー界のジョゼップ・グアルディオラとどこか似ているかもしれない。会話の途中で突然、黙ったかと思うと、何か全然別のことを語り出したりすることもしばしばだった。途中から彼のほうから質問を発し、どちらがインタビューされているのかわからないこともあった。とにかく一筋縄ではいかない性格だった。

「神のことは信じているが、僕に信仰はない」と言っていた。実際、彼が十字をきったり、勝利を神に捧げたりするのを見たことはない。周囲の人はそんな彼のことを不可解な人物として、どこか敬遠しているようなところがあった。

 セナほど敵が多かったドライバーもいない。

 セナの一番の敵は1979年から1993年までFIA(国際自動車連盟)のトップを務めたジャン=マリー・バレストルだったろう。ことの発端は1989年の日本GPだ。ポールポジションでスタートしたマクラーレン・ホンダのセナだったが、すぐに同じチームのアラン・プロストに抜かれる。47周目のシケインでセナがプロストの内側に飛び込みマシンが接触。プロストはそこでリタイアしたが、セナはマーシャルにマシンを押させ、どうにか再スタート。レースに戻ると、奇跡のようにトップでレースを終えた。

プロスト、FIAとのバトルの顛末とは

 しかし、パレストル会長はセナのこの行為が危険であったと、セナを失格にした。セナとプロストはこの時、シーズン優勝を争っていたが、このペナルティのせいで結局はプロストが優勝した。セナはバレストル会長の裁定に反発、同じフランス人のプロストを優遇したとして裁判にまで持ち込み、ここにFIAとの戦争が勃発した。

 その後、最終戦のオーストラリアGPには出場したものの、バレストルはセナのドライビングが危険であると、彼のスーパーライセンスを停止。そのためセナはF1を運転できなくなった。セナは激怒し「バレストルはレースを操っている、八百長をしている」と発言。バレストルはセナが公に謝罪しない限りはライセンスを再発行しないとし、事態はどんどんこじれていった。

 困ったマクラーレンのトップ、ロン・デニスは、セナに謝罪の手紙を書くよう勧めたが、彼は拒否した。90年の2月17日までに謝罪がなければ、この年のセナのF1参戦はないと言われた。実際、90年の最初のドライバーリストにはセナの名前は載っていない。

 結局、セナの名前はリストに戻った。裏で何があったかはわからない。両者ともこの件については口をつぐんでいた。一説によれば、セナがバレストルに謝罪のFAXを送ったとも言われている。だが、実はそこには謝罪の言葉はなく、ただ「こんなことをしていてもどちらの得にもならない」と書いてあったというのだ。

 当時のブラジルの新聞各紙は「F1の勝利、すべてはF1のため」とこの合意を報道した。ちなみに復活した90年、セナは優勝を果たした。鈴鹿ではまたもプロストをはじき出したが、この時は何もおとがめはなかった。のちにセナは「これはプロストとバレストルへの報復だ」と言っている。

 敵はほかにもいた。先のエピソードからもわかるとおり、永遠のライバル、プロストのほかにネルソン・ピケもセナを毛嫌いし、同国人であるにもかかわらず、ふたりは一切、言葉を交わさなかった。ピケはことあるごとに「セナは偽物だ」などと発言していた。

マンセル、シューマッハ、ハッキネンとも...

 セナは頭に血が上りやすく、それを拳で解決することも少なくなった。彼は諧謔的(かいぎゃくてき)に「F1界に善人にはいない、悪人ばかりだ。だからより悪くなくては生き残れない」などとも発言している。

 1987年のベルギーGPで、セナ(当時ロータス・ホンダ)がナイジェル・マンセル(ウィリアムズ・ホンダ)のマシンに突っ込み双方がリタイアしたことがあった。レース後、マンセルはロータス・ホンダのピットに怒鳴り込み、説明を求める。4人のメカニックが止めようとしている間に、セナはマンセルのことを殴った。

 1992年のフランスGPでは、若手として台頭してきていたミハエル・シューマッハ(ベネトン)の自分をリスペクトしないドライビングに苛立ち、観客の目の前でシューマッハにくぎを刺すシーンが見られた。その後、ホッケンハイムでのテスト走行中に諍いなり、この時は乱闘寸前にまでなった。「殺してやる」という強い言葉まで聞かれたという。

 ミカ・ハッキネン(ロータス)がセナより早く走った時も、彼はハッキネンに食ってかかった。ハッキネンが「マシンの力じゃない、これが自分の実力だ」と答えると、セナは激怒したという。

 1993年の鈴鹿では、エディ・アーバイン(ジョーダン)と、記者の前で大喧嘩を繰り広げた。周回遅れのアーバインがトップを走るセナを追い越したことで、セナは激怒。アーバインのインタビュー中に「お前は何をしたかったんだ」と乱入した。アーバインに「お前がのろかったからだ」と返されてカッとなって手を出した。この後、ふたりは長いこと口を利かなかった。

 ドライバー相手ではないが、こんな出来事もあった。1991年のシルバーストーンで、セナのマシンがガス欠で止まってしまった時、彼はウィニングランをするマンセルの車に乗ってパドックまで戻ってきた。「セナ・タクシー」という有名なエピソードで、ほほえましい話と知られているが、その陰でセナは、それを止めようとしたマーシャルを足蹴にしている。
(つづく)