「うそー! マジで?」「ヤバイ、ヤバイ?」 打球音と、ジュニア選手たちの息遣いに満たされたテニスコートに、突如として黄色い歓声が響きわたった。 喜びと驚きに見開かれた選手たちの視線の先にいるのは、錦織圭。4月18日〜22日に沖縄県豊見城市で…

「うそー! マジで?」
「ヤバイ、ヤバイ?」

 打球音と、ジュニア選手たちの息遣いに満たされたテニスコートに、突如として黄色い歓声が響きわたった。

 喜びと驚きに見開かれた選手たちの視線の先にいるのは、錦織圭。4月18日〜22日に沖縄県豊見城市で開催された『リポビタンPresents伊達公子×YONEX PROJECT』(以下、伊達プロジェクト)の強化合宿に、あの錦織がふらりと現れたのだ。



昨年10月を最後に実戦から離れている錦織圭

「伊達さんに会いたかったというのもありますし、ジュニアのトップのレベルを見ておきたかったというのもあります。ちょうどリハビリをして時間があるなかで、少しでも自分のできることをしたいのと、足を運ぶことでリラックスにもなると思うので......いろんな兼ね合いで」

 沖縄を訪れた理由をそう語る錦織は、「水族館にも行きたかったし」と、南国の風に乗せてフワリと笑った。

「伊達プロジェクト」は、世界の4位まで上り詰めた伊達公子さんが2019年に立ち上げた、後進育成のための企画だ。プロジェクト生を広く公募し、伊達さん自らがオーディションに立ち会い、強化対象選手を選考する。

 女子4選手で始動した第一期生が昨年卒業し、続いて8名からなる第二期生が昨年春に選ばれた。プロジェクトの主な内容は、2年間で8回開催される育成キャンプ。今回の沖縄合宿は、二期生の第4回キャンプにあたり、12歳から15歳の7選手が参加した。

 その合宿での"臨時コーチ"を申し出たのは、錦織本人だったという。

「沖縄で合宿やるんですよね、だったら僕も行こうかな」と雑談のなかで口にした錦織の言葉に、伊達さんも最初は「本当に来られるの?」と半信半疑。それでも伊達さん曰く「あとは流れというか、勢い」で実現した、今回の錦織コーチ誕生だ。

 当初は半日のみの指導予定だったが、その翌日にも錦織はサプライズで登場し、選手たちを熱狂させる。マネージャー等の帯同や、スポンサー関係者たちの姿もなし。完全なプライベートでの沖縄訪問のなか、錦織は2日間で計6時間ほど選手たちとボールを打ち、助言を与え、ユーモラスな言動の数々で選手たちと談笑も交わした。

錦織圭が教えたリターンの肝

 1月末に股関節の手術を受けた錦織は、現在は復帰を目指し、リハビリに励む日々を送っている。まだ激しい動きはできないものの、ボールを打つことに加え、徐々に左右への動きも取り入れ始めたところだ。

「順調に回復しています。今日も痛みもなく。まだ横には動けないので、ポイント練習はできないんですが、ジュニアと打つくらいなら、ちょうどいい練習になりました」

 合宿訪問初日に口にしたこの言葉が本心であることは、コート上の動きと、はじける笑顔が雄弁に物語っていた。

 なにより、伊達プロジェクトへの指導で錦織が示したのは、彼の優れた観察眼と、コート上での戦術立案法。そして、それら概念や思考を言語に落とし込む能力である。

 今回の合宿で錦織自ら、指導の核に据えたのが、リターンだった。

「自分が一番得意だし、一番基礎で軸だけれど、みんな練習をやっていない」ショットだというのが、その理由だ。

 伊達さんからの「世界一リターンがうまい錦織くん」の前口上に、「そういうの、やめてください!」と大いに照れながらも、まずはリターンのデモンストレーションを披露。

「僕が必ず心がけているのは、後ろから前に入ること。スプリットステップ(※)を踏んで、前に入って打つと、少ない力でも飛んでくれる。あとは、(ラケットを)振りすぎないこと。伊達さんもそうだけれど、テイクバックは小さく」

※スプリットステップ=相手がボールを打つ直前に小さくジャンプするフットワークの技術。重心を低くしてつま先重心となり、出だしの動きをスムーズにしてくれる効果がある。

 それらリターンのコツを具体的に説明しては、あらためてお手本を示していく。伊達さんからの「コースの予測はどうやるんですか?」との質問には、「基本は相手のトスや打ち方を見て」と即答。さらには少し間を置き、自らの思考を言葉に置き換えてから、ひと息に説明した。

「あとは、選手のクセも頭に入れておきます。この人は3回連続で同じコースには打たないなとか、選手によっては必ず毎回コースを変えたがる人もいる。すんごい、頭でも考えてますね」

経験に基づいた錦織の助言

 こうして概要をひと通り解説したあとには、選手一人ひとりのリターンを見ながら、個別に助言を与えていく。

 それも、通り一辺倒な指導ではない。「一度試しに、自分のなかで一番ちっちゃいと思うテイクバックで打ってみて」「スプリットステップを、わざとらしいくらい高く飛ぼうと意識してみて」と、飾らぬ言葉で核心を伝えていった。

 そして仕上げは、打つ範囲をコート半面に限った、5ポイント先取の試合形式の練習。錦織本人からの「勝者にはサインと好きなジュース1本」という副賞提示に、選手たちのモチベーションは最高潮に達した。

 結果は7人のうち、サイン&ジュースの恩恵に預かった選手は1名。ひとりはマッチポイントを手にしながらも、「チキった! もう一度やりたい!」と悲痛な声を上げる無念の敗戦だった。

 それら悲喜こもごもの選手たちを前にして、錦織が送った助言は、次のようなものである。

「緊張した時ほど、ラケットを振ってください。それが普通の自分になれるように、日ごろの練習や試合の時から『緊張したら振る』というのを、ひたすらやってください」

 すると、選手たちからは「思いっきり振ると、コートに入らないんですが......」と質問が飛ぶ。その声に真摯に耳を傾ける錦織は、自身の思いや経験を寄せるようにこう応じた。

「振って、どれだけ入るまで我慢できるか。俺もリハビリの時は、いつもそう。ぜんぜん入らない時期が続くけれど、でも、入るときが来るから。その時まで、振り続ける」

 それは彼が、今の自分に言い聞かせる言葉のようでもあった。

 昨年10月を最後にコートから離れている錦織は、「手術をするまで、けっこう試した時期が長かったので」と、術前に多くの試行錯誤を重ねてきたことを明かした。

 MRI撮影では、ダメージを示すカゲは映っていたという。だが、「中を(切って)見てみないと、どれくらい傷ついているかは明確にわからない」なかで、「12月、1月はずっと、もやもやしていた」と言葉をこぼした。

錦織が描く「復帰のプラン」

 最終的に手術に踏み切ったのは、「2カ月やって、もう痛みに耐えられなかった」のが実情。果たして、内視鏡を入れて見たところ、「マリーみたいになる寸前だった」と打ち明けた。

 錦織の言う「マリーみたい」とは、股関節を痛め、人工関節の手術を受けた元世界1位のアンディ・マリー(イギリス)のことである。「復帰は不可能」と言われるなか、不屈の闘志でツアーに帰還したマリーだが、連戦は難しいのが現状だ。

 だからこそ、その前に手術できたことを「結果、やってよかった」と錦織は安堵する。「若干、悔いも残ります。早く......もう2カ月早く、やると決めておけばよかったですが」との後悔もにじませたが、「そこは、しょうがないですね」と、穏やかにつづけた。

 復帰のプランは、手術当時に描いた「夏」のタイムテーブルどおりに進んでいるという。ただ、すぐにかつての場所に戻れるほど甘い世界でないことは、彼が誰よりも知ることだ。

「猶予は持たせて、というか。すぐ上がるのは難しいと思うので、ゆっくり上げながら、2〜3年以内にまたグランドスラムの上のほうでやるというのが、まずは目標ですね」

 最近のツアーの試合を「見てます。さすがにそろそろ見ないとまずいかと思って」の言葉からも、本格的な復帰モードに入ってきた機運がうかがえた。

「いつか皆さんが強くなった時、グランドスラムで会いましょう!」

 合宿の最後、ジュニア選手たちそう言い残して、錦織は会場をあとにした。それは彼が、自分自身に送るエールのようでもあった。