今年は5月1日に開催される天皇賞・春。1993年と1995年の同レースを制したライスシャワーは、「ウマ娘 プリティーダービー」でも人気のキャラクターだ。実際のライスシャワーはどんな馬だったのか、天皇賞・春とともに振り返る。(2021年4月…

 今年は5月1日に開催される天皇賞・春。1993年と1995年の同レースを制したライスシャワーは、「ウマ娘 プリティーダービー」でも人気のキャラクターだ。実際のライスシャワーはどんな馬だったのか、天皇賞・春とともに振り返る。(2021年4月27日配信)



2度目の天皇賞・春を制し、ヒールからヒーローになったライスシャワー

 快進撃を続けるスマホゲーム「ウマ娘 プリティーダービー」。実在の競走馬を擬人化した"ウマ娘"を育成し、競馬さながらに大レースを制するストーリーは、いまや競馬ファンのみならず、多くの人に愛されている。

 作中にはさまざまなウマ娘が登場するが、なかには大レースを勝つたびに自分が「ヒール(悪役)」となることに悩むキャラクターがいる。"ライスシャワー"である。

 ウマ娘のライスシャワーは、大レースを制するたびに周囲が落胆する状況となり、「私が勝っても誰も喜ばない、ガッカリするだけ」と苦悩してしまう。勝つことを目指して生まれながら、なぜそんな悩みに向き合わなければならないのか。このキャラクター設定は、モデルとなった競走馬・ライスシャワーの苦悩がそのまま反映されている。

 ライスシャワーは、競馬史に残る大記録達成を2度にわたって阻んだ。そのため、勝利をおさめながら"ヒール"の位置づけになってしまったのである。

 最初に大記録を阻んだのは、1992年秋のGⅠ菊花賞(11月8日/京都・芝3000m)。3歳牡馬は、同世代で「三冠」と呼ばれるクラシックレース(皐月賞・日本ダービー・菊花賞)を戦う。3戦すべてに勝つと三冠馬となるが、当時はたった4頭(現在は8頭)しか成し遂げていなかった。

 この年、三冠馬に王手をかけたのがミホノブルボンだ。しかも、皐月賞、ダービーと無敗で勝ってきたのである。菊花賞を制して無敗の三冠馬となれば、1984年のシンボリルドルフ以来、史上2頭目の快挙だった。

 そんな歴史的な偉業を阻んだのがライスシャワーだった。ミホノブルボンが4コーナーで先頭に立ち、大歓声に湧いた京都競馬場。無敗の三冠馬誕生ムードがピークに達していたが、ライスシャワーの黒い影は虎視眈々とその背後に迫っていた。

 そして直線、先頭に立つブルボンに、すかさず外からライスシャワーが並びかける。ブルボンも抵抗するが、最後はきっちりとかわした。競馬場は騒然となり、アナウンサーも「京都競馬場の大歓声が悲鳴に変わりました」と伝えている。

 これが、ライスシャワーにとって最初の大記録阻止だった。

 それから5カ月半後の1993年4月25日。ふたたびライスシャワーは大記録阻止をやってのけた。舞台となったのは、またも京都競馬場。GⅠ天皇賞・春(京都・芝3200m)である。

 このレースで前人未到の記録に挑んだのが、メジロマックイーン。長距離戦で圧倒的な強さを誇り、天皇賞・春の3連覇がかかっていた。伝統ある"春の盾"として続いてきたこのレースでも、史上初のことだった。

 しかし、ライスシャワーはそれを打ち破った。マックイーンを倒すため、戦前、陣営は異例のハードトレーニングを敢行。前走比マイナス12kgという極限の馬体で挑んだ。

 レースでは、大本命馬の背後をぴったりマーク。3~4コーナーでマックイーンの芦毛の馬体が上がっていくと、またも黒い影がその後ろから追いかけた。そして直線、実況も「今年だけもう一度頑張れ、マックイーン!」とエールを送るが、ライスシャワーが一気に外からかわした。ミホノブルボンに続き、メジロマックイーンの記録達成も阻む形となった。

 ライスシャワーが図ったように大記録を止めたのは、もちろん偶然の結果論。馬や陣営は、ひたむきに勝利を目指しただけだった。しかし、不幸にも、負かした相手が背負うファンの期待が大きすぎた。結果、本来なら喜ばれるはずの大勝利が"ヒール"としてのキャラクターを定着させてしまった。ウマ娘の性格も、そんな事実が背景となっている。

 その後、ライスシャワーは長いスランプに陥ってしまう。3連覇阻止から2年間、勝ち星は遠のき、2、3着が精一杯だった。まるで2度のGⅠ制覇で役目を終えたかのように、精彩を欠いていく。

 さすがにもう復活はないだろう――。ファンもそう思い始めた中、復活のときはやってきた。1995年4月23日、3連覇の阻止から2年後の天皇賞・春だった。

 混戦ムードと言われたこの年の"春の盾"。戦前の雨で芝コンディションは「重馬場」。水分を含んだタフな状態だった。

 障害を除くJRAのGⅠレースで、天皇賞・春は最長距離となる。向こう正面のバックストレッチからスタートし、約1周半で勝負を決めるマラソンレースだ。スタートから先行したライスシャワーは、まず1周目のホームストレッチで6、7番手を追走した。

 動きがあったのは、向こう正面に差し掛かったとき。黒い馬体がすっと先頭に立ったのだ。京都競馬場は、2コーナーから3コーナーにかけて4m近い高低差があり、3コーナーまで上り坂、3コーナーから4コーナーにかけて下り坂の構造。「淀の坂」といわれる名物で、この坂を越えるまでは動かないのが勝利のセオリーだった。

 だが、ライスシャワーは坂の手前からロングスパートを敢行して先頭に立った。そのまま坂を越え、4コーナーでさらに力強く他馬を引き離すと、最後の直線では外から追い込んだステージチャンプをギリギリ抑えて、2年ぶりのGⅠ制覇を決めたのである。

 同馬の主戦ジョッキーだった的場均元騎手(現調教師)は、あのロングスパートについて「ここで動いたら、勝てるかもしれない」と考え、ライスシャワーに「ここで行ってもいいかな」と心の中で尋ねたという。すると、その思いを読み取ったかのように、ライスシャワーみずから動き出したと著書の中で振り返っている。

 幼い頃から賢い馬で、人の言うことを素直に聞いたと言われている。そんな従順な性格が、あのスパートを生んだのかもしれない。そしてこの復活勝利は、勇猛果敢な戦法と相まって、ライスシャワーを"ヒール"から脱却させた。

 その証拠に、同馬は続くGⅠ宝塚記念(京都・芝2200m※例年は阪神)に"ファン投票1位"で選出される。本来、宝塚記念は阪神競馬場で行なわれるが、この年は阪神・淡路大震災の影響により京都競馬場での開催。淀を得意とすることから、陣営は出走を決めた。

 だが、ここでライスシャワーを悲劇が襲った。スタートから行きっぷりが悪く、後方を進んだ同馬は、3コーナーから4コーナーの途中でレース中に突然転倒。骨折を発症したためだった。

 一度は必死に立ち上がったが、すでに手の施しようのないほど重度の骨折であり、その場で安楽死の処置が取られた。念願のヒーローになった瞬間、過酷にも、ライスシャワーの生涯は幕を閉じてしまったのである。

 事実は小説より奇なりというが、改めて生涯を振り返って、こんな筋書きは誰にも書けないと思う。それでも、最後の最後にヒーローとなり、ファンから愛されて生涯を終えたことは、せめてもの救いだったと願いたい。ヒールとなった当時、必死に勝利をつかんだこの馬には、何の罪もなかった。

 それから26年。"淀"こと京都競馬場は現在、改修工事に入っている。そのため、今年の天皇賞・春は阪神競馬場で行なわれる。淀を愛したライスシャワーは、果たしてどこからこのレースを見ているだろうか。その勇姿も思い出しながら、伝統のレースを見てみたい。