佐藤操さんに聞く(前編) シニア2年目の2021-22シーズンに、グランプリシリーズ2連勝、全日本選手権3大会連続3位、北京五輪銀メダル、世界選手権2大会連続銀メダルと、輝かしい成績を残した鍵山優真。その飛躍の陰には、鍵山の隠れた才能を引き…

佐藤操さんに聞く(前編)

 シニア2年目の2021-22シーズンに、グランプリシリーズ2連勝、全日本選手権3大会連続3位、北京五輪銀メダル、世界選手権2大会連続銀メダルと、輝かしい成績を残した鍵山優真。その飛躍の陰には、鍵山の隠れた才能を引き出し、世界のトップスケーターへと導いた振付師、佐藤操さんの存在があった。3年間にわたる鍵山選手との師弟関係の舞台裏を語ってもらった。

――佐藤操さんと鍵山優真選手はシニア転向までの3年間、選手とコーチ&振付師という関係で濃密なシーズンを送られたわけですが、シニアデビュー後の鍵山選手にどのような変化があったと思いますか?

「新型コロナウイルス感染の世界的流行の前と変わらない行動ができていたのは2020年2月の四大陸選手権(鍵山は3位)、3月初旬の世界ジュニア選手権(同2位)まででした。それからの約2年間、どれだけモチベーションを持って戦えるか、みんな大変だったと思います。そんななかで優真は、周りの応援もあったと思いますが、環境に左右されることなく、自分の目標に向かって強い意志で練習をやりきったのではないかと思います。



北京五輪での鍵山優真と父親の正和コーチ

 頼もしくなってきたなと思えたきっかけは、やはり父親の存在だと思います。鍵山正和先生が2018年6月にご病気で倒れた時に、『いつも一緒にいてくれたお父さんが家にいない』と『いつも一緒にいてくれた先生がリンクにいない』と、ふたつの日常が同時になくなった。彼にとっては相当なダメージだったと思います。ひとり立ちということをすごく感じられました。

 私がスタッフとして関わるようになった頃、まだ子どもだった優真が一生懸命に練習しているのを見ていて、『僕もお父さんみたいになりたい』なんて言われたらうれしいだろうなと思って、鍵山先生に『幸せですよね、鍵山先生は』という話をさりげなく振った時に、鍵山先生が『上を目指すとどれだけ大変かを自分は経験している。そんな思いをしないでもっと楽しい人生を歩んでほしい』と。うれしさと心配の気持ちが半々なんだとおっしゃっていたんです。だからきっと親子の間で『いつかオリンピックに出たい』『そんな甘くないよ』みたいな話は常にあったと思います」

転機となったユース五輪

――幼少の頃からすでにオリンピック出場への未来予想図が描かれていたのですね。

「北京オリンピックを目指す前に目標にしたのが2020年のユースオリンピック代表でした。この大会は年齢制限があるので、優真にとってこのチャンスを逃すと2回目はない。出場枠が1なので、そこを目指すということは2019年の全日本ジュニア選手権で優勝しなければいけなかった。優真自身は『オリンピックという名のつくところに自分が出場することが、次の北京オリンピックにつながると思うから、どうしてもここは逃せられないと思っている』と話していました」

――優勝したユースオリンピックはどんな大会でしたか?

「ジュニアグランプリでさんざん戦ってきた、知った顔のメンバーばかりだったので、ライバルが点数をどれぐらい出すかも、どれぐらい上手なのかも、よくわかっていました。だから、それこそ一歩も引けない状態ではいましたし、ここで思いきりやらなかったら次はない、みたいな話をしました。

 もうひとつ、開催地がたまたまローザンヌ(スイス)で、そこにオリンピックミュージアムがあるんです。トレーニングの合間に『せっかくだからちょっと行ってみようか』という話になりました。そこにはウィンタースポーツを中心にいろんなものが展示されていて、スイスだからステファン・ランビエルの衣装などが飾ってあって、優真は熱心に見ていました。

 オリンピック歴代のメダルが展示されているコーナーでは、『あっ、お父さんが行ったのはこの年だ』と言ってアルベールビルのメダルを見て、『かっこいいな』とか、ずっと言っているんです。『優真もメダルをもらったら、こうやって名前が出たりするんじゃないの』と言ったら、『オリンピックに出る価値があることが今日よくわかった』と言ってました。

『ここは記念グッズを買うしかない』などと言って、ふたりでさんざんいろいろなものを見て回って、『よし、これで北京が見えてきた』なんて言ってました。その時点では(私には)全然見えてなかったんですけど(笑)。

「鍵山先生が帰ってきた時に驚かせたい」

『かっこいいから僕も出たいと最初は思ったけど、かっこいいだけでは出れないんだなとわかった。それでもやはりオリンピックの舞台に参加したい』と言う彼を見て、目標がある選手に携わる側としてうれしかったし、あれはとてもいい機会だったと思います」

――佐藤さんが最初に鍵山選手を見た時、どんなスケーターだと思いましたか。

「小学6年の時に、軽井沢から横浜に引っ越してくることが決まり、私がスタッフとしてお仕事を一緒にするようになったのが中学1年の夏からでした。まだ子どもでしたが、実際教えてみたらすばらしい選手で、やはり父親のDNAなんでしょうね。体からにじみ出る柔らかさがありました。

 もともとスピンがジャンプより好きだったみたいで、スケートの質はよかったです。性格的にはあまり前に出るタイプではなく、シャイでした。いまだに『あなた、かわいい顔してるから、女装も似合うわよ』と言ったら『そんなのやめてください』と言うぐらいです。私の提案については、最初の一瞬は『そんなの、僕にできますか?』ということを当時はよく言っていました。

 ちょっと足を伸ばしたらきれいに見えたり、ちょっと笑顔にしたら曲とマッチしたりするということを、私の専門なので提案したんです。その時によく話し合う時間を取れたのも、よかったかなと思います。私が指導スタッフに入ったことで、表現のレッスンをするという形で新しい知識を入れることができたし、たまたまその当時、友野一希君や田中刑事君がうちのリンクにエキシビションを作りに来ていて、私と一緒にプログラムの振り付けをしているの見たりする機会もあったので、刺激を受けたと思います」

――正和さんが病気になって、代理コーチを務めるようになってからはいかがですか?

「鍵山先生が倒れられた後、優真がひとりでリンクに戻ってきました。私は鍵山先生から『不在の間、よろしく』と連絡をいただき、『もちろん、抜かりなく見張りますよ』と言いました。『誰よりも頑張ろう』というキーワードをふたりで合言葉にして、鍵山先生が帰ってきた時に絶対に驚かせたいし、褒められたいということになりました。

 その頃、やっと手に入れたジャンプがトリプルアクセルだったので、もし鍵山先生がいない間にできなくなったら、優真も私も怒られるから、トリプルアクセルを完成させて1個でも技を増やせるように練習を頑張ることを決めました。それまでより長い時間、リンクにいるようになりましたが、今思えば、本当は練習熱心だっただけじゃなくて、お父様がいない寂しさもあってたのかなと、ちょっと思いますが、本当にすごく練習をしていました」
(つづく)

佐藤操さんが鍵山選手について語った記事は4月25日発売の『Sportiva 日本フィギュアスケート 2021-2022シーズン総集編』にも掲載!

佐藤操(さとう・みさお)
1970年10月18日生まれ。東京都出身。元アイスダンス選手の振付師。選手の個性とキャラクターを引き出す魅力溢れる振り付けが得意。鍵山のほか、話題になったプログラムに田中刑事のエキシビション『ジョジョの奇妙な冒険』などがある。

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