初心者16歳受け入れ、プロテスト挑戦、レッスンコーチに プロゴルファー宮里藍のツアー引退から約5年。父の宮里優氏が勤務する沖縄・名護市の大北ゴルフ練習場では、33歳の男性コーチがレッスンに取り組んでいる。名前は藤原健人(ふじわら・けんと)。…

初心者16歳受け入れ、プロテスト挑戦、レッスンコーチに

 プロゴルファー宮里藍のツアー引退から約5年。父の宮里優氏が勤務する沖縄・名護市の大北ゴルフ練習場では、33歳の男性コーチがレッスンに取り組んでいる。名前は藤原健人(ふじわら・けんと)。京都市に生まれ、16歳の夏、初めてここを訪れた。当時は不登校生。両親から預けられる形でゴルフを始めたが、すぐにアパートに引きこもった。しかし、優氏や練習場の人々からの思いを受け、立ち直ることができた。聖志、優作、藍の宮里3兄妹が注目された頃から続く約18年の物語。取材と証言を基に紹介する。(取材・文=THE ANSWER編集部・柳田 通斉)

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 大北ゴルフ練習場は、平日も満席になる。近年、沖縄県北部にあった他の練習場が閉鎖になったこと、コロナ禍に伴ってゴルフ人口が増えたことが要因だという。その中で、健人はスクールを持って利用者をレッスンしている。

「僕はどんなレベルの方でもレッスンしますが、7割が初心者の方です。80歳前後の女性で、旦那さんに『ゴルフを始めてみろ』と言われ、初めてクラブを握った方もいらっしゃいます。そのような方にもゴルフの楽しさ、面白さを伝えるのが僕の仕事だと思います。やりがいはすごくあります」

 口調は明るく、沖縄なまりもある。利用者の多くは、彼が地元出身だと思っている。だが、健人は18年前まで、京都市の自宅で人目を避けて生きていた。

「小4からの不登校生でした。ぜんそくで2週間、学校を休んだことがきっかけでした。部屋の居心地が良くなり、勉強もしたくない。登校して『サボっていたのか』『珍しいな』と言われるのが怖かったのもあります。高校は小中の同級生がいない学校に進学しましたが、『やっぱり、行きたくない』と部屋にこもりました。そんな生活の中、父親と一緒に行った練習場でボールを打ち、ゴルフに興味を持ちました。そして、藍さんがトーナメントで優勝するシーンをテレビで見て、『ゴルフに打ち込んでみたい』と決意しました」

入門後も1年間引きこもり…優氏が説得「私がついている」

 健人は程なく高校を中退し、両親と大北ゴルフ練習場を訪れた。優氏は健人が不登校になった経緯も知った上で、引き受けた。当時、優氏は「宮里道場」の師範として、夕刻から夜にかけて、プロを目指す生徒たちをレッスンしていた。しかし、人と接することが苦手な健人だけは昼間に指導。グリップ、アドレスから教え、スイングの基本を作る「30ヤードのアプローチ」も繰り返させた。

 だが、その頃の健人は110キロの巨漢ですぐに疲れ果てていた。早々とゴルフの難しさも知り、考えの甘さを痛感。やる気を失い、ついにはアパートから外に出なくなってしまった。

「練習を頑張れば、プロになれて藍さんのように稼げるという思いもありましたが、とてもかなえられるものではないと気づき、また、自分の殻に閉じこもってしまいました」

 1か月、2か月を経ても健人は家から出てこなかった。宮里道場のスタッフが電話をし、アパートを訪れても「行きたくない」。両親が京都から説得に訪れたが、ダメだった。そうして、1年が過ぎた頃、優氏は両親がいる前で、健人にこう伝えた。

「健人、君が入った宮里道場の長期コースはプロを目指すものだが、ご両親がここに来させた理由は、君を人として立ち直らせたい。みんなと一緒に生活をして、笑えるようにさせたい。そういうことで、必ずしもプロにさせようとことではないんだよ。だから、レベルに関係なく、自分のペースでゴルフをすることを考えなさい。ゴルフを通じてマナー、ルールを守ることを学ぶようにしなさい。私がついているから」

 その言葉を聞き、健人は顔を上げ、目に力を入れた。数日後には1人で練習場にやってきた。優氏から「よく来たな」と声を掛られると、照れくさそうに「はい。よろしくお願いします」と返答。引きこもり生活を脱した瞬間だった。

 やる気になった健人は、朝8時から夜遅くまで練習するようになった。終了後は「家に帰ってもクラブを握りたい」と言い、ゴルフバッグを持ち帰った。体重はみるみる減って90キロに。一方で、ボールを打つたびに顔をしかめるようになった。左手首の腱鞘炎だった。やる気になって体も絞れてきたのに練習ができない……。そこで、練習場の川崎友子代表が、健人に声を掛けた。

「朝、練習場の中を歩いてみましょうかね。私も運動をしたいから」

体重110キロ→64キロ、ラウンド1年でスコア70台に

 朝5時30分に集合。2人の早朝ウォーキングが始まった。新たな日課で、健人の意識に変化が出ていた。

「自分のために友子さんが一緒に歩いてくれる。何てありがたいんだ。もう、甘えてはいられない。やらなきゃ」

 長年の不登校、引きこもりでついた「どうにかして休みたい」という思いは、消え去った。次第にウォーキングだけでは物足りなくなり、ジョギングも開始した。体重はさらに減り、半年が過ぎた頃には64キロに。ピーク時の110キロから比べると、46キロも減っていた。

 そのタイミングで健人は、左手首の手術を受けた。リハビリを経て、右手だけのアプローチから練習を再開。ウェッジのフルショット、アイアン、ドライバーショットと段階を踏んで、ラウンドを開始した。初ラウンドは100を打ったが、腕はグングンと上がり、1年後には70台をマーク。そして、20歳でプロテストを初めて受験した。

 現実は厳しかった。テストになると緊張で力を発揮できず、不合格を繰り返した。ツアー予選会(QT)の1次は突破したが、その上に行くことはできなかった。そして、26歳で7度目のテストに失敗すると、優氏は健人にこう告げた。

「健人、君がここに来て10年になった。よく頑張って、人と向き合えるようにもなった。プロテストに合格しなくても、君は既に人生の勝者であり、立派な社会人なんだよ。もう、それでいいじゃないか」

 健人は優氏の言葉を受け、ツアープロになることを断念した。悔しかった。情けなかった。と同時に安堵もした。

「正直に言えば、肩の荷が下りました。『プロになりたい』と言って、ゴルフを始めたのは自分ですが、寝ても覚めてもゴルフのことを考え、息が詰まっていたので……」

現在は結婚、一家の主に「宮里道場に入れてくれてありがとう」

 1日1000球以上を打ち込み、年間4、5本はフェアウェーウッドのフェースが割れた。パワーヒッターゆえのことだが、大事なテスト前にケガを負ったこともあった。本番ではさまざまなことを考え、ミスがミスを呼んだ。優氏からは「考えすぎだ」と忠告されていたが、自分を抑えることができなかった。

 健人はその後、名護市内のゴルフショップで働くようになった。3年後の17年には、大北ゴルフ練習場内でスクールを開校。19年から週3レッスン、週2ショップ勤務のペースになっている。そして、昨年3月には沖縄で生まれ育った女性と結婚。一家の主となった。自身でのプレーが少なくなり、体重は80キロ超になったが、充実した日々を送っている。

「ここに来た時、僕は人が苦手で何もできませんでした。だけど、今は日々、お客さんと接しています。本当に宮里先生、友子さん、練習場の皆さんのおかげで、人生が変わりました。感謝してもしきれません。僕が大変な迷惑をかけてしまった両親には、『宮里道場に入れてくれてありがとう』という思いでいます」

 優氏はコーチとしての健人を見て、「私が伝えてきたことを応用しながらも、分かりやすく教えています。感慨深いですね」。川崎代表も「健人は優しいし、熱心なのでお客さんから人気があるんですよ。うれしいです」と喜んでいる。

 人生にはいろんな形がある。掲げた目標に届かなくても、努力の過程で手に入れたものはある。健人はそれをかみしめ、感謝し、今後も沖縄で生きていく。

■藤原健人(ふじわら・けんと)
 1988年(昭63)7月20日、京都市生まれ。16歳の夏、宮里優氏の元でゴルフを始める。約1年間は引きこもりを経て、練習を再開。ケガを乗り越え、20歳でプロテストを初受験。26歳まで計7度受験も、合格には届かなかった。球筋はドロー。得意クラブは4番アイアン。174センチ、80キロ。血液型A。(THE ANSWER編集部・柳田 通斉 / Michinari Yanagida)