10月の大会が最後のレースになることを表明した小平奈緒(写真提供:相澤病院) 4月12日に長野市で行なわれた記者会見で小平奈緒(相澤病院)は、10月にエムウェーブで開催される全日本距離別選手権の500mを、自分の競技人生のラストレースにする…



10月の大会が最後のレースになることを表明した小平奈緒(写真提供:相澤病院)

 4月12日に長野市で行なわれた記者会見で小平奈緒(相澤病院)は、10月にエムウェーブで開催される全日本距離別選手権の500mを、自分の競技人生のラストレースにする予定であることを発表した。

「昔からスケート人生を続けていくなかで、自分の人生をスケートだけで終わらせることにすごく疑問を感じていました。だから昨年の夏から、北京五輪を迎えるシーズンの夏ということで(コーチの)結城(匡啓)先生や家族などに未来像を語るような場面も多くなっていて。そうなった時に『五輪で最後にするのはもったいないよね』という話も出て、自分のなかからもそういう気持ちが湧き出してきたので。最後に自分のスケートを表現したい場所というのが地元の信州だったので、長野で滑るというのもすごく魅力的でしたし、シーズン開幕戦ということで、次の世代にバトンタッチするにもすごくいい機会だなと感じました」

 北京五輪の1000mを終えたあと、小平は今後について、「所属先と相談をしなければいけないが、もう一度地元で、体の痛みがない状態でのびのび滑ることができたらいいな、という未来像を描いています」と話していた。それを聞いた時、ケガを治してもう1シーズン続け、その後にそういう場を求めるのではないかと思った。だがその時、彼女が心のなかで決めていたのは、エムウェーブで開催される全日本距離別選手権だった。

 その大会はW杯代表選考会を兼ねるもの。もし自分がW杯にも出場することになれば、次の五輪を目指す若い選手たちの経験の場を奪うことになってしまう。そうした状況を避けながら自分の思いを実現するとともに、次代の選手たちへのエールを送る場にするためにと、そこをラストレースにすることを決めたのだろう。そして今季の最終戦だった、第2の故郷ともいえるオランダのヘレンベーンで開催されたW杯ファイナルにもケガを押して出場と、その準備を着々と進めていた。

北京五輪ではジョギングもできない状態

 小平がこの決意を語るのに先立ち、これまで指導してきた結城コーチは、五輪シーズンをこう総括した。

「北京五輪は残念な結果となったが、(昨年の)春から秋にかけてはほぼ思いどおりのトレーニングができ、左股関節の違和感もほぼ解消されて本来の動きに近いものができるようになっていた。W杯前半戦も500mと1000mは全レース出場し、表彰台にもほぼ毎回上がれる状況で過ごし、ここからエネルギーを溜めていけば五輪でもいい勝負ができるなと思っていた矢先の捻挫だった。W杯ファイナルもまだ痛みがあるなかだったが、オランダに行った時に一緒に練習をしたイレイン・ブスト選手の引退レースということもあり、本人の希望で出場し、初日の500mは3位になって表彰台に上がった。結果的に北京五輪以外の国際レースではほぼ全大会で表彰台に上がったので、いいシーズンだったかなと思っています」

 北京五輪のために現地入りした時は、陸上でのジョギングもできない状態だった。滑走はできて、1周25秒台のトップクラスのラップでは滑れるが、スタートのために右足を決めるとしゃがむこともできず、体を静止させることもできなかった。結城自身、本番のスタートラインに立てないのではないかと思い、「スケートの神は前回のチャンピオンだった小平に、何を試させたいのだろう」とさえ思った。

 氷上練習を始めてから、構えを逆にしたり手をついた3点スタートも試したりするなか、男子の構えにヒントを得てスタートの構えができるようになった。だが500mのレース当日の氷上アップの時、小平から「靴の中の違和感をもう少し少なくしてレースに臨みたい」と申し出があり、数本していたテーピングのうちの1本を外してレースに出た。「でも、それが命綱の1本だった。レース後に小平はスタートで左足が出なかったと言ったが、それは右足が押さえられなかったから。1000mは従来のテーピングにしたことで、本来のタイムではないが、中国選手に競り勝つレースができた」と話す。

北京五輪の感想は「言葉が見つからない」

 そんな北京五輪を小平は、過去3回の五輪も踏まえてこう話した。

「五輪は4回とも、『スポーツってなんだろう』と考えさせてもらえた機会でした。以前、バンクーバーは成長、そしてソチは屈辱、平昌はまた成長の五輪だったと話したことがありますが、今回の北京に関してはなかなか言葉が見つからないし、今でもどんな五輪だったかを振り返っているところです。ただ、いろんな方から手紙をいただいて、それぞれの人生観を通して私の五輪での姿を見た思いを伝えていただいた時、五輪はすごく結果が大きな大会だとは思うけど、その方たちにとっても私にとっても、今回の五輪はスポーツのまた違う一面が見られた五輪だったのではないかなと思いました。自分の状況を受け入れるにはすごくエネルギーが必要ですが、人としていろんな思いを巡らすことができた。それが今回の北京五輪だったかなと思います」

 小平は「スポーツは、それぞれの人にとっての人生を豊かにするものであってほしい」という願いを持ってスケートを続けてきたと言う。その思いを、競技生活を続けるなかで届けられたのではないかという事実。そして苦しんだ北京でもありのままの姿を示すことができたことは、自分がスケートをやってきてよかったと思う部分だと。

 ただ、見ている側の欲かもしれないが、500mの世界記録を出し、私たちに新たな世界を見せてほしかったという思いも残った。平昌五輪で優勝した時期は、まさにそれに手が届かんとした時だった。小平自身も、06年トリノ五輪の1500mで優勝した直後に世界記録を連発したシンディ・クラッセン(カナダ)のように、五輪を駆け抜けたいと話していた。

 そのチャンスは、平昌五輪の翌シーズンに巡ってきた。最終戦のW杯ファイナルが高速リンクのソルトレークシティー開催だったからだ。だがその時点で彼女は、片足ではしゃがめないくらいに股関節に違和感がある状態だった。それでもファイナルでは36秒47の日本記録を含め、36秒4台を連発し、翌週のカルガリーでは男子と一緒のレースながら36秒39を出した。だが李相花(韓国)の世界記録には0秒03届かなかった。

「記録に関しては条件や運もあるので、悔しさはありません。ただ世界記録を目指す過程が私をすごく成長させてくれた。生まれ持ったこの体をスケートというスポーツを通じて存分に使いこなすことができるという、その楽しさがすごく価値のあるものだなと思っているので。世界記録が出せなかったことに悲しい気持ちだったり、悔しい気持ちだったりは湧き上がってはいません」

現役ラストレースへ向けて

 彼女が常に口にしていた「駆け抜けたい」という言葉のように、小平は競技人生のなかでタイムというゴールを設定することなく、駆け続けていたのだ。

 そんな小平が初めて設定した、競技人生のなかでのゴール。それが10月の全日本距離別選手権だ。

「10月に向けては今までやっていなかった講演やイベント活動もやって、地域の皆さんと関わりを持ちながらも、現役アスリートという時を過ごしていきたいという思いを両立させなければいけないので、少し覚悟も必要だと思います。でもそういうなかで感じ取る学びもすべてプラスに変えて、10月に本当に会場をひとつにしたような、『スケートってこういう一面もあるんだな』という、小平奈緒としてのスピードスケートの面白さというか、(観客が)心を動かされるような空間を作っていきたいなと思います」

 これまで数々の輝かしい結果を残してきたなかで、記憶に残るのはどの大会だったかという問いに、小平は明るい表情で「おそらく次のレースが最高のレースになると思います」と答えた。最後の最後まで現役アスリートとして努力を続けて突っ走り、そのまま次の人生へ向けて駆け抜けたいという思い。小平奈緒らしい「ラストレース」宣言だ。