「なぜ、今……」。そう投げかけられるタイミングで引退できる選手も多くはないだろう。数日前、世界No.1のアシュリー・バーティ(オーストラリア)が現役引退の決意を表明した。その意志は固く、現在、開催されているマイア…

「なぜ、今……」。

そう投げかけられるタイミングで引退できる選手も多くはないだろう。数日前、世界No.1のアシュリー・バーティ(オーストラリア)が現役引退の決意を表明した。その意志は固く、現在、開催されているマイアミオープン(ATP/WTA1000)の翌週には彼女の名前は世界ランキングから失効される。

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■突然のことで受け止められていない

「私にはもう肉体的な原動力も、感情的な欲求もトップレベルの自分に挑戦する必要なものは何も持っていないんです。以前に同じようなことをしたが、その時とは異なる感情でいます」。

まさに青天の霹靂だった。全豪オープンで母国優勝を果たし、これからアシュリー・バーティの時代がやってくる…、女子のテニス界にすべてのサーフェスでも活躍できる絶対的女王が生まれた……そう安堵のような高揚感に包まれていた私には正直、まだこの事態を冷静に受け止められていないのかもしれない。

昨今ではアップテンポでオフェンス重視の選手が多い中、バーティほど攻守のバランスを保ちながらゲーム・マネージメントが出来る選手はしない。それこそ現代テニスを進化させる貴重な存在であり、バーティこそ長期間、トップレベルを牽引することができるとも予見していた。

どんなタイプの相手にも対応できる、問題解決に優れたIQテニス、パンチのあるサービスに、スピンとスライスのコンビネーションから生まれる緻密に計算されたチェンジオブペース、勝利に必要な冷静さと我慢強さ、特に「相手の時間を奪う」ことが戦術の軸にある昨今で、バウンドの高低差を使って相手を崩すことが得意だったバーティは、必要以上にテンポを速めリスクを負わずに済むスタイルを持っている。もちろん、ダニエル・コリンズと対戦した全豪決勝時のように、局面に応じオフェンスの度合いを上げることもできるが、いかなる時もバックハンドのスライスでバーティ自身のペースに引き戻せることが最大の武器であり、この高度な守備力こそ日々変わる環境のなかでも安定したゲーム運びを支える要だ。

■完成されたテニス

今となれば集大成となった全豪で披露したテニスは、一種の完成形として今後ずっと語り継がれるパフォーマンスだろう。バックのスライスは切れ味に加え、回転量からスピードまで繊細にコントロールされ、加速と失速を思いのままに操る美しいテニスだった。

優勝後に「間違いなく、やるべきことはまだまだある」と言い残したことから、この完成されたテニスがどこまで進化するのかという期待が私の中を駆け巡った。そしてパワーやスピードで押し切ることが増えた現代テニスに、彼女のようなゲーム性豊かな選手が見せてくれるテニスの神髄にもっと触れたかったというのが本音である。

もしこのままバーティがプレーを続けていれば、若きホープとして期待されるイガ・シフィオンテク(ポーランド)や多くのダブルスタイトルを掴んでからシングルスで成功を見せたバルボラ・クレイチコバ(チェコ)、パワーヒッターとしてずば抜けた才能を持つ大坂なおみなど、あらゆるタイプのプレーヤーたちがどんな方法を用いて彼女を突破することが出来るのか。その試行錯誤から生まれる攻防戦こそ、今後の女子テニスのゲーム性を進化させると大きな興味があったからだ。

どれもこれも勝手な期待だったかもしれない。だが、それほど絶対的女王としてふさわしいテニスを完成させていたバーティがどうしても名残惜しい。

■「自分ができることをすべて出し切った」

今回の大きな決断が彼女自身にとって、すべてが計画的なものではなかったはずだ。今年初めに悲願の全豪優勝を果たした瞬間、今ではあのポイントが最後になるとは思ってもいなかったと話し、10日前まではボールを打っていた。

ただ常に「辞め時」というタイミングを探していたのは事実だろう。それは全身全霊を競技に懸けるアスリートの道理である。3年前に四大大会を初優勝した全仏後、コーチのタイザー氏に話したひと言目は「引退してもいい?」だったとも打ち明けた。そして昨年に真の夢だったウィンブルドンを制覇してからは「私のアスリートとして視点を大きく変えた。自分の幸せは結果に左右されないという変化がキャリアの2段階目に差し掛かった時に、私の中にあった」とコメントした。

この過程を踏みながら、いまだ終息が不透明なパンデミックのなか、日々のコロナ検査やバブル生活、そのうえ隔離生活に対して厳しい母国オーストラリアへの帰国が叶わなかったシーズンを過ごしたことから、今とは違う生活への欲求が加速したこともあるかもしれない。そして夢を叶え戻った家族との日々に、自身の気持ちが素直に整理されるという自然の流れでもあったと思う。

欲を言えば、まだ果たせていない全米を勝ち取ることや、年間グランドスラムを狙うこともできただろう。テニスでの成功を手段とし他のビジネスにも参加することが出来たかもしれない。でも彼女にその様子は見えない。今回の決断も然り、これまでにも彼女の言動には「人生を豊かにするためのスポーツ」という点が色濃く映し出されている。心身の成長に重きを置き、最も高いレベルに到達する。そして自分にとって必要以上のことは追いかけない。

「わたしにとって成功とは、自分ができることをすべて出し切ったということ」。

その様が、スポーツの本質を知っているようで、あの晴れ晴れしい笑顔が驚くほどに潔く見えた。

今後は、地元オーストラリアの地域社会への貢献と「スポーツに親しむ機会を増やしたい」と話している。彼女ほどスポーツを愛し、多くの経験を語れる伝道者はいないだろう。また他のスポーツに挑戦するかという質問を否定しなかったバーティが追いかける次の夢とは何なのか気になるところでもある。いずれにせよ、友好的で誰からも愛されるバーティはどこに行っても人気者だ。

私自身もアシュリーにインスパイアされた1人だった。現役時代にあなたとボールを打ち合い、テニスで繋がれたことに感謝している。人として多くのインスピレーションを与えてもらい、テニスの真の楽しさを教えてもらった。それは同じコートに立ち感じてきたことを含め、いちテニスファンとして試合を観戦することからも多くのことを学ぶことができた。

アシュリー、あなたの人生が、これからも描くとおりに!  素晴らしいものとなりますように。

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著者プロフィール

久見香奈恵●元プロ・テニス・プレーヤー、日本テニス協会 広報委員

1987年京都府生まれ。10歳の時からテニスを始め、13歳でRSK全国選抜ジュニアテニス大会で全国初優勝を果たし、ワールドジュニア日本代表U14に選出される。園田学園高等学校を卒業後、2005年にプロ入り。国内外のプロツアーでITFシングルス3勝、ダブルス10勝、WTAダブルス1勝のタイトルを持つ。2015年には全日本選手権ダブルスで優勝し国内タイトルを獲得。2017年に現役を引退し、現在はテニス普及活動に尽力。22年よりアメリカ在住、国外から世界のテニス動向を届ける。