3月4日に開幕する北京2022パラリンピック。初出場となるパラスノーボード日本代表の岡本圭司(牛乳石鹸共進社)は「楽しみしかない」と語る。高校卒業後に19歳でスノーボードを始め、日本のスロープスタイル界の第一人者となった岡本。映像や写真な…

 3月4日に開幕する北京2022パラリンピック。初出場となるパラスノーボード日本代表の岡本圭司(牛乳石鹸共進社)は「楽しみしかない」と語る。高校卒業後に19歳でスノーボードを始め、日本のスロープスタイル界の第一人者となった岡本。映像や写真などでスノーボードを表現する楽しさにも触れ、活動の幅を広げていた2015年、撮影中に道路に転落して脊髄を損傷。下半身不随の重症を負った。

 しかし、そこから懸命のリハビリと不屈の精神で自立歩行ができるまでに回復。右足の著しい機能障害と左足の一部に皮膚の麻痺が残るものの雪上に復帰し、18年からはパラスノーボードに挑戦している。そんな岡本選手に、大事にしているスノーボードのマインドや仲間の存在、世界大会の経験で得たもの、そしてパラリンピックへの意気込みを聞いた。



ケガをする前もあともスノーボーダーとしてのマインドは変わらないという岡本圭司

――昨年4月のワールドカップ(W杯)イタリア大会ではスノーボードクロスで2位に入り、パラスノーボードに転向して初の表彰台を獲得しました。今季もW杯オランダ大会のバンクドスラロームで2位と好調ですね。ご自身ではパフォーマンスをどう評価していますか?

「以前はトップ選手と秒数でも結構な差がありましたが、今は彼らの背中のすぐうしろまできているという感覚があります。ケガをする前はプロとしてフリースタイルをしていたのでテクニックはあると自負しているんですが、レース形式で競争することに対しての理解度は低かったんです。それを高める練習をしてきたわけですが、自分のなかでしっくりきたのが今年に入ってからという感じですね」

――以前、「障害で右足(うしろ足)が使いにくい点から種目はスノーボードクロスをメインにする」と話されていましたが、今季はバンクドスラロームでも結果を出していますね。

「横の動きが多いバンクドスラロームはうしろ足を踏ん張るので僕に向いてなくて、最初は諦めていたんです。でも、コーチや仲間からアドバイスをもらって、うしろ足をあまり使わずに、前足をこれまでより内側に踏むことで重心が真ん中にきて、ズレずにターンする方法がわかってきました。オランダ大会はそれがハマって、いい感覚を掴んだ。バンクドスラロームでも光明が差してきたなと感じています」

――今季、ここまで戦ってきて見えた収穫と課題は?

「そのバンクドスラローム以外は大幅に変えることはもうなくて、一個一個詰められるところがあるなぁという感じです。目下のところ勉強しているのは、スピードの乗せ方です。健常者のスノーボードクロスのトップ選手である元木兄弟(元木康平・勇希)にレクチャーしてもらったりしています。レースはやはり体重が重いほうが有利で、海外勢は80キロオーバーがほとんですが、僕は今4キロ増やしてやっと62キロ。体重が軽くて不利だから負けると捉えるのではなく、どうやって乗り越えるかを大事にしています。

 基本的に考え方はケガ前と変わってなくて、僕は大会に出て競争するっていうより、セッションしている感覚なんです。当然、レースで勝ち負けがつくのも面白いんですが、そこに対して躍起にはなってなくて。この技術では勝てないけど、これを組み合わせたら自分にしか出せない輝き方ができるっていうスノーボーダーのマインドを今も大事にしています」

――そういう意味では、日本のパラスノーボード界も個性あるメンバーがそろっていますね。

「日本代表選手は6人いて、全員が違う武器を持っています。いつも一緒に練習していて、どうしたらお互いのストロングポイントを共有して一人ひとりの能力を高め合えるのかを話し合っています。海外遠征中も僕の滑りがダメだった時に、キャプテン(小栗大地選手)とまーさん(大岩根正隆選手)きて、『ここがあかん』っていうのを教えてくれたりするんです。彼らも次の日にレースがあるのに。僕にアドバイスすることで自分たちのダメな部分もわかったって言ってくれて。コーチたちも選手のことを一番に考えて、夏も冬もいい環境を提供してくれる。最高のバイブスを持っている人たちです」

――プロ選手として活躍中に受傷されました。当時の状況や心境、雪上に戻った時のことを覚えていますか?

「スノーボードはどこを滑っても、ジャンプしてもいい。もともとその自由さに惹かれて取り組んできたのに、いつの間にか大会の結果にとらわれたり、ナーバスになる自分がいました。『こんなことがしたいんじゃないのに......』と悩みました。

 それからは、興味があった表現の世界に主軸を移して、スノーボードの写真や映像を撮ったり、ファンと触れ合ったり、ライフスタイルをテーマにしたテレビ番組の司会をしたりしました。僕がやりたいことってこういうことなんだな、とピークを感じていた時に、撮影中の事故で下半身不随になったんです。一生車いす生活という宣告がされ、本当に何もできなくて、死にたいとしか思えなくなりました。そこから懸命にリハビリして、立てるようになって、なんとかスノーボードに戻ったんですけど......。ぜんぜん楽しくなかったんですよね。どうしても前と比べてしまって、何をやっても虚無感がありました」

――そこからどのように乗り越えたのですか?

「どうすれば抜け出せるのか必死に考えました。それでいろんなことにチャレンジしてみようと思って、たとえば音楽をやったり、ウェブデザインを勉強したり。どれもすごく楽しかったですよ。でも、なんか満たされなかったんです。そんな時にパラのスノーボードクロスに出会いました。さっきも言ったように、もともと競争することは好きじゃなかったけれど、挑戦したことのない種目でゼロからのスタートだったから前と比べる自分がいなくて、もしかしたらこれなら追求できるかもしれないということに気づいたんです」

――そのスノーボードクロスのレースが、2018年の「全国障がい者スノーボード選手権大会&サポーターズカップ大会」。この大会に出場したことが、再起のきっかけだったんですね。

「そうですね。実は当時、どこかで健常者とはもう戦えないとわかりつつも、(健常者として)戻りたいという想いがあったから、大会ではさらっと勝って、インタビューで『僕は持ってるものがあるんで』くらいのことを言うたろうと思っていたのに、全敗しちゃったんです。悔しかったですね。

 でも、同じ障害の人たちが競い合って、それで僕より速かったりするわけで、なんか面白いなとも思いましたし、自分にも戦える舞台がまだ残されてるんやという可能性に気づいた。それで、やりたいなと思いました。スノーボードの新しい面白さを知って、人生を楽しむ引き出しが増えた感じですね」

――ケガをする前、プロスノーボーダーを目指す時に掲げた5つの目標のうち「世界大会の表彰台に立つ」ことが唯一、達成できていなかったそうですね。それを昨季のW杯イタリア大会で2位になり、20年越しにパラスノーボード界で実現しました。

「めっちゃ感慨深かったです。ニヤニヤしちゃいました。過去に達成できなかった目標が、障害者になったことで達成できる。人生って面白いな、諦めたらあかんねんなと思いました」

――このシーズンは他の大会でも好成績をおさめて、LL2クラス(下肢障害/膝より下の切断や麻痺)のシーズンワールドチャンピオンに輝きました。

「これは正直ラッキーでした。コロナ禍で他国選手は大会出場を見送ったりしていましたが、僕は4戦すべてに出場したので、優勝はしてないけど大会ポイントの合計でもらった感じなんです。でもまあ、クリスタルトロフィーを持ち帰ったら子どもが喜んでくれましたし、表彰されるっていうのはうれしいものですよね」

――いよいよ北京パラリンピックが開幕します。楽しみにしていること、成し遂げたいことは?

「今まで積み重ねてきたことを出せる舞台に行けるというのは、本当に楽しみです。コロナ禍の制限でどこまで行動できるかわからないですけど、できる限り他競技の選手たちとも交流したいなぁ。試合では、自分の滑りを出すのみ。当然、順位はひとつでも上にいきたいし、メダルは獲りたいと思うけれど、そこに固執することは僕の生き方に逆行することになっちゃう。やっぱり、明るい未来につながるような最高の滑りをした時に、その順位がついてくればいいなというところですね。

 そうそう、僕2月20日に40歳になったんですけど、40代でパラリンピックに出場するとか、すごいイケてますよね(笑)? 北京パラリンピック、楽しみしかないです!」