連載『なんで私がプロ野球選手に⁉』第6回 高梨雄平・前編 プロ野球は弱肉強食の世界。幼少期から神童ともてはやされたエリートがひしめく厳しい競争社会だが、なかには「なぜ、この選手がプロの世界に入れたのか?」と不思議に思える、異色の経歴を辿った…

連載『なんで私がプロ野球選手に⁉』
第6回 高梨雄平・前編

 プロ野球は弱肉強食の世界。幼少期から神童ともてはやされたエリートがひしめく厳しい競争社会だが、なかには「なぜ、この選手がプロの世界に入れたのか?」と不思議に思える、異色の経歴を辿った人物がいる。そんな野球人にスポットを当てるシリーズ『なんで、私がプロ野球選手に!?』。第6回に登場するのは、高梨雄平(巨人)。名門企業チームで戦力外寸前だった投手が、ドラフト直前にサイドスローに転向。球界を代表する左キラーになったサクセスストーリーを紹介しよう。



社会人時代にサイドスローに転向した高梨雄平

── もし、自分がプロ球団のスカウトだったら、高梨雄平という投手をスカウトしましたか?

 その問いに、高梨は真顔で即答した。

「絶対に獲らないですね」

 その言葉だけでは真意が伝わらないと思ったのか、高梨はこう続けた。

「プレーを見ただけだったら獲らないです。こうやって会話とかして、どういう人間なのかを判断していたら、下位だったら獲るかもしれないです。普通は獲ろうと思わないですよ。だから後関さん(昌彦/楽天スカウト部長)には感謝しかないですね」

 楽天で3年、巨人で2年。ここまでプロ5年間で263試合に登板し、85ホールド、防御率2.26を挙げている左キラー。それが、高梨がプロの世界で見せている顔である。だが、社会人時代の高梨はどんな顔を見せていたのだろうか。

【イップス発症で極度の制球難に】

 JX−ENEOS(現・ENEOS)の正捕手だった日高一晃は、2015年4月に入社した当時の高梨について「とにかくストライクが入らない」という印象を受けていた。

「高梨が大学3年の時に完全試合をした映像を見ていたんですけど、その時と比べると全然よくねぇな、と思ってしまいましたね」

 高梨は早稲田大3年春の東京六大学リーグ・東京大戦で史上3人目となる完全試合を達成していた。なお、当時の投球フォームはサイドハンドではなく、オーソドックスなオーバースローだった。

 もうひとりの捕手である柏木秀文は、高梨より3学年上の先輩で、試合でバッテリーを組むこともあった。ブルペンでは「いいボールを投げるな」と感じた柏木だったが、試合になると高梨についてこんな印象を抱いた。

「いい時はいいけど、ダメな時はダメ。試合になるとコントロールがままならない感じで、自滅しちゃうところがありました」

 高梨がコントロールに苦しんだ原因は、大学時代にイップスを発症したことにあった。大学時代に挙げた勝利は3年春の完全試合が最後で、以降は極度の制球難に苦しめられた。18.44メートルが途方もなく遠く感じられ、ホームベースよりはるか手前にボールを叩きつけてしまう。高梨は「今だから笑える話になったんですけど」と言って、当時の苦悩を振り返った。

「僕は真剣に『思ったところに投げられないのは、18.44メートルを投げ切る筋力が足りないからだ』と考えて、めちゃくちゃ筋トレしたんです。筋トレをすると数値は伸びるし、体は大きくなるし、目に見えた成果が出やすいじゃないですか。それでのめり込んで、球は4〜5キロ速くなったんですけど、悪いフォームはそのままなので。速い球をホームベース前に叩きつける人になっていました」

 あまつさえ左肩を痛めたことで「これは方向性が違うな」と高梨は悟り、動作系のトレーニングを重視するなど立て直しを図った。JX−ENEOSの捕手陣は「コントロールが悪い」と評したが、本人からすれば「結構いい状態で社会人に入れた」という実感すらあった。

【社会人野球の世界では劣等生】

 それでも、アマチュア最高峰の舞台は甘くはなかった。好不調の波が激しい高梨は、大事な試合で起用されることはなかった。本人も「これは厳しいな」と感じていた。

「大学の頃から状態がいい時は抑えられるけど、悪い時は普通に打たれていました。悪いなりに抑える試合がほとんどなかったんです。社会人で悪い日なんか、目も当てられないような感じで。監督の立場からすれば、一発勝負の世界で出してみなきゃわからない選手は使いにくいですよね」

 ただ戦力になれないだけでなく、高梨の行動がチーム内に波紋を広げることもあった。同期入社の外野手である岡部通織(みちおり)は「悪いヤツじゃないんですけど」と苦笑しながら、こんな内幕を明かした。

「高梨は独特の空気を持っていました。憎めないんだけど、仕事をしない。遠征の時、新人は荷物をバスに積み込む仕事があるんですけど、あいつだけどこにいるかわからなくなっちゃうんです。同期の糸原(健斗/現・阪神)は文句を言いながら率先してやっているなか、高梨だけはいない。いつしかそれに慣れてしまいましたね」

 個よりも和を尊ぶ社会人野球の世界では、高梨は劣等生と言ってよかった。それでも、高梨の存在がチームにとってプラスをもたらすこともあった。捕手の日高は「僕は高梨に肩を治してもらったんです」と証言する。

「ずっと肩が痛くて悩んでいたら、高梨が『痛いのは肩でも、直したほうがいいのは股関節の使い方ですよ』って言うんです。内転筋をもっと柔らかく使えるほうがいいと言うので、そのとおりにしてみたら本当にそれで治りました」

 その類まれな観察眼は、大学時代の苦い経験から磨かれたものだったと高梨は言う。

「破綻しない体の使い方を考えるようになりました。155キロは出るけど1カ月しか持たない、というのでは戦力にならない。地味に143〜144キロくらいしか出なくても、1年間投げられる形を目指すべき。その観点から自分だけでなく、ほかの選手のウォーミングアップやキャッチボールを見るようになりました」

【ドラフト4カ月前の重大決意】

 そんな高梨には、自分の決して明るいとは言えない現状が見えすぎるくらいに見えていたのかもしれない。ドラフト解禁となる入社2年目の6月。社会人野球最大のビッグイベントである都市対抗野球大会の西関東予選で、登板機会はおろかベンチ入りすら逃した。すでにドラフト会議は4カ月後に迫っており、チームは都市対抗出場を逃したため大舞台でアピールする機会は失われていた。

 高梨はある重大な決意をする。投球フォームをサイドスローに変えることにしたのだ。このままでは目標とするプロ入りはおろか、社会人野球の戦力としても先はないことはわかりきっていた。

 身近には格好の手本があった。高卒1年目の新人サイドハンド右腕・鈴木健矢(現・日本ハム)である。鈴木は木更津総合高から入社してすぐチームの戦力になっていた。

 高梨は「最初は健矢のコピーから始めた」と明かす。毎日2時間ほどつきっきりで、シャドウピッチングやネットスローを鈴木に見てもらった。

 当時の鈴木の投球フォームは、グラブハンドの使い方に特徴があった。右投手は軸足(右足)一本で立った後、左手にはめたグラブを捕手側に突き出しながら体重移動するフォームが一般的だ。ところが、鈴木は軸足一本で立った後、グラブハンドを二塁側に振ってから捕手側に向ける投げ方だった。

 鈴木自身は又吉克樹(ソフトバンク)のグラブハンドの使い方を模倣してこの形に行き着いたという。高梨もこの使い方をそのままコピーした。高梨はグラブハンドを二塁側へ向けるメリットをこのように解釈している。

「フィギュアスケートでも、ジャンプする時に広げた両手を胸の前で交差するじゃないですか。回転運動する時に重いものが外側にあると回転のスピードが上がらず、遠いものを軸に寄せることによって回転のスピードが上がるんです。僕の場合はお腹を中心に右腕と左足が対角に引き伸ばされて、投げる瞬間にキュッと回る感覚で投げています」

 フォームを変えたあとでも、140キロ程度のスピードが出た。5歳年下のサイドスローの先輩から技術を学び、高梨は順調なリスタートを切ったかに見えた。だが、高梨に残された時間はあまりに短かった。そして、にわか仕込みのサイドハンドには、ある致命的な欠陥があったのだ。

(後編:社会人で戦力外寸前からの大逆転劇。高梨雄平は球界屈指の「左キラー」へと上り詰めた>>)