パジェロが再び栄冠に輝いた1992年、三菱は次期世界ラリー選手権(WRC)マシンとなる「ランサー・エボリューション」を発表する。2500台に引き下げられた最低生産(市販)台数に設定された限定販売台数は…

パジェロが再び栄冠に輝いた1992年、三菱は次期世界ラリー選手権(WRC)マシンとなる「ランサー・エボリューション」を発表する。2500台に引き下げられた最低生産(市販)台数に設定された限定販売台数は、それをはるかに上回る注文が殺到し、最終的には約7500台が生産された。

◆ 【三菱ラリーアート正史】第2回 世界最強のラリー軍団が時代をつくる

■マキネンがWRCドライバーズ・タイトル4連覇

ランサー・エボリューションは93年の世界ラリー選手権(WRC)開幕戦モンテカルロから投入され、ケネス・エリクソン、アルミン・シュワルツともに速さを見せつけた。同じ年、復活した「香港~北京ラリー」に日本から篠塚建次郎氏がランサー・エボリューションで挑戦、スバル・ワークスを相手に単騎健闘する。

翌年はエボリューションⅡに進化し熟成を重ね、95年初頭のスウェディッシュ・ラリーでは、ケネス・エリクソン、トミ・マキネンの1-2フィニッシュで、ランサー・エボリューションとして初優勝を飾る。96年にはランサー・エボリューションⅢを駆る三菱ラリーアートのエースとなったマキネンにドライバーズ・チャンピオンのタイトルをもたらした。マキネンはその後99年まで4連覇、ランサー・エボリューションはⅣ、V、Ⅵと進化を続けWRCに君臨し続けた。

ランサーエボリューション VI 2001 モンテカルロラリー優勝車 撮影・2002 年パリダカ増岡浩優勝報告会/茨城県土浦市)

この間、WRCは大きな車両規定の変更があった。「ワールド・ラリーカー(WR-Car)」の登場である。国際自動車連盟(FIA)はランサー・エボリューションⅢをベンチマークに、量産ファミリーカーの4WD化とターボチャージャー装着、さらにワイドトレッド化を認めた。分かりやすく言うと、「公道レース用のスペシャルマシンを作ってもいいですよ」ということだ。日本の自動車メーカーのように4WDターボを量販できるメーカーはヨーロッパにはなく、いわばそれらの救済策、WRC離脱防止策だったとも言える。  

市販車ベースのグループA車両ランサー・エボリューションで快進撃を続けた三菱ラリーアートだったが、他のワークスチームと足並みを揃えよとのFIAからの強い要請を受けワールド・ラリーカーへの移行を決定する。ランサー・エボリューションⅥは以降、グループA車両では認められない改修をワールド・ラリーカー規定に基づいての特認を受けて2001年WRCの前半までを戦い、3度の優勝と99年に迫る成績を残した。

そしてFIAはモデルチェンジしたエボⅦをランサーの量販車とは認めなかったため、2001年後半戦からは、ファミリーカーのランサー・セディアをベースにエボリューションⅦのスタイリングをまとった「ランサー・エボリューションWRC」が投入された。

ランサーエボリューションWRC(C)三菱自動車

しかしワールド・ラリーカー規定開始当初の1997年から取り組んで来た他社ワークスマシンに対し、三菱の開発の遅れは否めず、マシンのパフォーマンスは相対的に低下、エースのトミ・マキネンが01年をもってチームを離れる状況を招いた。

ランサー・エボリューション・ワールド・ラリーカーは新たにドライバーとして迎えられたフランソワ・デルクール、アリスター・マクレーに委ねられた。だが、開発計画で予定されラリー・フィンランドから投入された改良型「ステップ2」も思うような成績を残せず、2002年の最高順位は5位と、かつてのチャンピオン・チームは輝きを失った。

折りしも三菱自動車を襲った逆風による経営危機からダイムラー・クライスラー(当時)の経営参加を受け入れることとなり、2002年11月、ワークスチームの運営はドイツ側主導で設立された「三菱自動車モータースポーツ(MMSP GmbH)」に移行された。

MMSPはWRC実動部隊ラリーアート・ヨーロッパ (人員給源のアンドリュー・コーワン・モータースポーツ)とパリダカ実動部隊SBMを買収・完全子会社化し、それぞれMMSP LTD、MMSP SASに改称した。MMSPが新型ワールドラリーカー開発に専念するとし、三菱自動車は2003年のWRC参戦を休止する。

MMSPマーク(筆者提供)

それはあまりにも唐突だったことを今でも覚えている。海外のモータースポーツ・メディアで目にした、急にカラーリング変更を命じられたというランサー・エボリューション・ワールド・ラリーカーの姿と共に。

そのときMMSPはまだ実体を伴った組織ではなかったはずだ。MMSPの設立経緯や権能について三菱自動車からの日本国内向けのアナウンスはきわめて少なく、ラリーアートの呼称変更との認識も多かったのではないかと思う。メディアやファンの多くは『これで強い三菱が帰ってくる』と歓迎ムードもあったが、私自身は不安の方が大きかった。  

■スヴェン・クワントによるラリーアートの完全否定

2002年11月、ヨーロッパで開催された「Mitsubishi Motorsports Day」と銘打たれたイベントでは、新たなカラーリングにリペイントされたランサー・エボリューションWRCのデモラン、および2003年のパリダカを戦う「パジェロ・エボリューションMPR10」のアンヴェール (初公開)が行われた。これにラリーアートは関与していない。

2台のワークスマシンの赤とシルバーのカラーリングは、『赤は三菱を、そしてシルバーはダイムラーを表すものだ』との説明があったと記憶している。そう説明した長身のドイツ人こそ、MMSP GmbH代表のスヴェン・クワント氏である。   私はどこかでクワント氏に会ったことがあることに気づいた。いや、正確に言えば互いを視界に収めた程度だっだろう。記憶の底から急速に浮かび上がってきたのは、私がフランスに派遣された「94パリ~ダカール~パリ」ラリーのスタート前日の車検場だ。一台遅れて検査リフトに載せられたプライベーターのT1 (市販車無改造)パジェロ。そのパジェロのドライバーにしてチームオーナーこそ、スヴェン・クワントその人だった。三菱チームのユニフォームをまとった私に一瞬向いた視線の、その眼光の鋭さはよく覚えている。

94パリダカ車検場でのクワント氏のパジェロ。総合14位で完走している(筆者提供)

一部のメディアが伝えたMMSP代表スヴェン・クワント氏の当時の発言は、私にとって、ラリーアートの完全否定に近いものだった。

「街を散歩するご婦人に『ラリーアート』のことを聞いても何のことか分からないだろう。 でも『三菱自動車』のことは多くの人が知っている。だから自動車メーカーはワークス活動を自身の名前で行う必要がある」。

正論……ではある。だがそれは、マーケティングの視点に限るならば、だ。

ラリーアートが目指したモータースポーツは、ただ効率的に勝利しそれを広告塔にすることではなかった。三菱自動車は1967年に初めて国際ラリーに「コルト」を出場させた時代から過酷な状況で商品を鍛え、壊れれば原因を追究し改良につなげ世界に通用するクルマを作ろうとしてきた。そのスピリットを、より消費者に近いところで代弁するためにラリーアートは設立され存在してきたのだ。

先の発言に続いて、クワント氏はこうも発した。

「ヨーロッパのラリーアートは再編される」。

クワント氏は、モータースポーツから収益を得ていたラリーアートをMMSPのカスタマーレーシング部門と位置づけビジネスを推進しようとした。しかし、私にとってそれは、今なお敬愛してやまぬ近藤昭ラリーアート元社長(故人・在任1989~97) の築き上げた、海外ディーラーや現地モータースポーツ事業者からなるラリーアートのネットワーク (その強い結びつきは「ラリーアートファミリー」と呼ばれた)を灰燼に帰す行為かのようにも思えた。近藤氏は、私を94パリダカの後方支援に送り出してくれた恩人でもある。クワント氏の一連の発言は私のみならず、ラリーアートと共に歩んだ者にとって、あまりに悲しく冷たい響きに感じたはずだ。

後に設立手続きを完了させたMMSP GmbHは「三菱自動車のモータスポーツ統括会社」と名乗る。だがこれはどう考えても違和感が残った。モータースポーツ活動を統括するのはメーカー、つまり三菱自動車であってMMSP GmbHは実動部隊のチームを指揮する子会社だ。MMSP首脳による、いわば「モータースポーツに関する権能の親会社からの奪取」は、やがて迎えるモータースポーツ撤退の序曲だったのかもしれない。

ドイツ名家の出身で優れたビジネスマンでもあるクワント氏は、三菱自動車のモータースポーツ活動の主導権を得たことを内外に示すためにかF1を引退したばかりのミカ・ハッキネンをランサー・エボリューションWRCに乗せ、一部のヨーロッパラリー選手権(ERC)イベントにプロモーション参戦させた。この事実を知る人も少ないだろう。

ハッキネンのシルバーのレーシングスーツにはMMSPのロゴだけが縫われ、RALLIARTのロゴは存在しなかった。こうしてラリーアートは事実上ワークスチーム運営の外に置かれることとなったのである。

ランサーエボリューションWRC2 MMSPカラー(筆者提供)

【続く  第4回は2月14日掲載予定】

◆ 【三菱ラリーアート正史】第1回 ブランドの復活宣言から、その黎明期を振り返る

◆三菱自動車の魂 RALLIART がラリーに還る日

◆【著者プロフィール】中田由彦 記事一覧

著者プロフィール

中田由彦●広告プランナー、コピーライター

1963年茨城県生まれ。1986年三菱自動車に入社。2003年輸入車業界に転じ、それぞれで得たセールスプロモーションの知見を活かし広告・SPプランナー、CM(映像・音声メディア)ディレクター、コピーライターとして現在に至る。