WEC最終戦バーレーン8時間レースでの中嶋一貴 昨年12月、レーシングドライバーを引退した中嶋一貴。 36歳という若さでの現役引退はファンやモータースポーツ界に大きな驚きと衝撃を与えた。F1ドライバーの中嶋悟を父に持ち、幼少の頃から走ること…



WEC最終戦バーレーン8時間レースでの中嶋一貴

 昨年12月、レーシングドライバーを引退した中嶋一貴。

 36歳という若さでの現役引退はファンやモータースポーツ界に大きな驚きと衝撃を与えた。F1ドライバーの中嶋悟を父に持ち、幼少の頃から走ることを運命づけられていたとも言えるが、その血は確かなものだった。中嶋一貴もまたF1を走り、ル・マン24時間で3連覇を果たすなどレーシングドライバーとして確かな実績を残してきた。レースの舞台から降りた今、次に中嶋が進むのは、どんな道なのだろうか。

「幸せなキャリアを歩ませてもらったなと思います」

【父が校長のスクールとは別のスクールへ】

 2003年からスタートしたレーシングドライバー人生を振り返り、中嶋は笑顔でそう語った。そこからキャリアを重ねていったが、今も非常に印象深く残っている出来事は、トヨタが運営するフォーミュラトヨタレーシングスクール(FTRS)への入校だ。

「僕がドライバーになるキッカケになったのが、2002年に入ったフォーミュラトヨタレーシングスクールです。もともと自分は、性格的にガツガツ世界を目指すタイプじゃないと思っていました。でも、そこに入ってから周囲の方々に引っ張ってもらい、自分の実力以上のものを引き出してもらったから今の自分があると思っています。実はこのスクールは2回受けているんですよ。最初に合格できなかったことが自分のなかでは大きなターニングポイントになっています。レースに対する意識やレースに対する取り組みが変わったんです」

 スクールでは優秀な成績を収めるとスカラシップでレースに出られるようになる。中嶋も入校して1年目でスカラシップを取り、翌年に出場したフォーミュラ・トヨタでシリーズチャンピンに輝いた。この頃、父親の悟さんは鈴鹿でホンダのレーシングスクールの校長を務めていた。息子である中嶋があえて鈴鹿を選ばなかったのは、そこに理由があった。

「僕は、鈴鹿のカートのスクールには通っていて、レースを始めたのはそこなんです。でも、ホンダのレーシングスクール鈴鹿に行きませんでした。父がいることはもちろん意識していました。仮に僕がそこに入って、実力でスカラシップを取れたとしても父親が校長というのがついてまわるでしょうし、それは父も感じていたと思うんです。僕もそれは本意ではないので、トヨタでチャレンジすることにしたんです」

【印象深いのは途中リタイアのレース】

 中嶋は、そこでトヨタの育成ドライバーとなり、世界を目指す環境のなかでキャリアを歩んでいくことになる。2007年にはブラジルGPでF1デビューを果たし、08年、09年はウイリアムズと契約し、日本人として8人目のフルタイムドライバーとしてF1を戦った。その後、トヨタのトップドライバーとしてWEC(世界耐久選手権)とスーパーフォーミュラ、スーパーGTで活躍し、2018年にはル・マン24時間で初めて優勝を果たした。

「ル・マンの優勝はうれしかったですね。でも、個人的に強く印象に残っているのは、その時ではなく、2016年のル・マンです。トップで走っていながらラストのホームストレートで車が止まってリタイアしたんですが、これは衝撃的でしたし、すごく悔しかった。今も忘れられないですね。勝った経験も大事ですが、負けた経験のほうが自分の成長のために大きなものを与えてくれる。この経験があったから結果的にル・マンの初優勝につながったんだと思います」

 そのル・マンでは、3連覇を達成し、トヨタの顔として世界のレースシーンを駆けた。最後のレースになったのは、昨年、WEC最終戦のバーレーン8時間だった。

「この時点では、まだレーシングドライバーとして完全な引退は表明していなかったんですけど、自分のなかでは決めていました。これが本当に最後なんだなと思うとなかなかレースに集中しきれない部分がありましたし、トップでチェッカーフラッグを受けた時は、やっぱり感情を抑えることができませんでした」

 ここでWECのレギュラードライバーとしてのキャリアに終止符を打つことになるが、まだ36歳という若さだ。父・悟さんは38歳で引退したが、今はアスリート年齢が伸び、いろんなスポーツで長く活躍している選手が多い。中嶋の引退には、「まだできるのに」という声が非常に多かった。

「少し早いかなという気持ちがないわけでもなかったですね(笑)。でも、世界耐久選手権でトヨタは若いドライバーに世代交代していかないといけないということで僕はWECのレギュラードライバーを降りることを決めました。本来ならそこで国内レースへというのが通常の道なんですけど、トヨタから新たな提案があったんです。ドイツにトヨタ・ガズー・レーシング・ヨーロッパという会社があるのですが、そこでトヨタを強くしていくための仕事をしてくれないかと言われました。最初は、悩みましたね。バーレーンのあとは、国内でドライバーを続けようと思っていましたから」

 しばらく熟慮の期間を経て、中嶋はそのオファーを受諾する。

「決めたのは、僕がドライバーとして成長できたのは、トヨタという世界を目指せる環境があったからなので、まずその恩返しをしたいということですね。それから今後、モータースポーツ界が大きく変わっていくなかで、世界を目指したいという若いドライバーのためにいい環境を作っていくことが大事なことだなと思ったからです」

 レーシングドライバーとして心残りはあった。ここ2年間はコロナ禍の影響で移動が制限され、国内外でレースが中止になり、カレンダーが変更になった。

「海外でも国内でも落ち着いてレースができなかったですし、国内のファンに自分の姿を見せられないまま引退してしまった。それは、本当に心残りですし、申し訳ない気持ちです」

 中嶋は、そう言って少し複雑な表情を見せた。

【今後は運営、後進育成の道へ】

 これから中嶋は、トヨタ・ガズー・レーシング・ヨーロッパの副会長として、いろんな役割を担い、仕事を全うしていくことになる。若いドライバーに世界で戦うチャンスを与えていくことがまずひとつ重要な仕事になるが、F1ドライバーになるために必要な条件はあるのだろうか。

「F1のドライバーは、技術、体力はもちろん、語学力も含めてドライバーとしてすべての要素が必要になります。僕がF1に乗って一番驚いたのは車の性能でした。スピードはもちろんですが、ブレーキ(をかけた時)の減速具合とかコーナーを速く抜けるとか、F2の車とは比較にならないほどズバ抜けている。それにともなう体力的なつらさは想像を絶するものがありました」

 そうしたチャンスを与えられる環境づくりが中嶋の仕事のひとつになるわけだが、子どもたちにとって、レーシングドライバーという職業が憧れや目標になるためにレーシングドライバーのステータスを確立していくことも重要になる。トヨタを始め多くの自動車メーカーがある日本において、メーカーや車と同様にもっとレーサーが注目されてもいい。海外では、レーシングドライバーは、プロサッカー選手たちと並び、そのステータスが非常に高い。

「僕自身は、あまり気にしてこなかったですけど、やっぱり欧州と比較すると日本はまだアスリートとしての印象が薄いですよね。車を使うことでアスリート感がないのかもしれないですが、これはレース界にずっとある課題なので、もっと注目されてメディアに取り上げられていくことを考えていかないといけない。そのためには世界で活躍するドライバーが必要かなと思うのですが、F1では角田(裕毅)が活躍していますし、ル・マンではトヨタの小林可夢偉と平川亮が頑張っていくでしょう。ラリーでは勝田(貴元)が、インディでは(佐藤)琢磨さんが活躍しています。世界で結果を出し続けて初めて注目されると思うので、そのサポートもしっかりしていきたいですね」

 トヨタ・ガズー・レーシング・ヨーロッパは、ドイツ・ケルンにあり、中嶋はそこに常駐することになる。世界のレースや世界耐久選手権のオペレーションをしたり、車の開発を日本のトヨタ・ガズー・レーシングと連携しながら推し進めていく。自動車業界を含めてモータースポーツ界も大きな転換期を迎えつつあるが、そのなかでもレースの発展や車の開発にも欧州で携わっていくと言う。

「副会長と言われるのは、ちょっとこそばゆい感じですが(笑)、これからもレースに関わっていきます。ル・マンでレースをするのは楽しかったですが、それと同じぐらいこれからが楽しみですね」