現役最後の日に初めて見た景色とは「陸上は希望が持てる」 大阪ハーフマラソンが30日、大阪・ヤンマースタジアム長居発着の21.0975キロで開催された。大阪国際女子マラソンと同時スタートで行われ、引退レースの39歳・福士加代子(ワコール)は1…

現役最後の日に初めて見た景色とは「陸上は希望が持てる」

 大阪ハーフマラソンが30日、大阪・ヤンマースタジアム長居発着の21.0975キロで開催された。大阪国際女子マラソンと同時スタートで行われ、引退レースの39歳・福士加代子(ワコール)は1時間16分4秒の30位で完走。誰よりも人の心を掴んだランナーは、最後のレースで「皆さんに希望をもらった」と初めての感覚を明かした。(文=THE ANSWER編集部・浜田 洋平)

 スタート数秒前だった。福士は人ごみをかき分け、関係者のもとへ何かを受け取りに戻った。手にしたのはマスクのようなもの。胸元からユニホームの中に入れている時、思いのほか早く号砲が鳴った。「うえぇ!?」。慌てて走り出す。ついに迎えた大事な引退レースは“らしい”珍場面から始まった。

 15キロ付近まで上位にくらいついた。沿道に笑顔をふりまく余裕もある。だが、徐々に失速。終盤は足が動かない。歯がゆい気持ちをぶつけるように太ももを叩いた。脇腹を押さえ、腕を回して体をほぐす。立ち止まり、屈伸した。苦しくて顔が歪んだ。最後の最後は全く想定外のレースになった。

「あのね、私が思い描いていた景色があったんですけど。カッコよく終わる感じ。うぇ~い、みんなご苦労さ~んって。(実際は)最後に皆さんに励まされるというね」

 沿道、自分を追い抜いていく一般参加のランナーまでもエールをくれる。「ありがとう!」「最後まで楽しんで!」。思い出のトラックに戻ってくると、声援はさらに温かみを増した。自然と蘇った笑顔。動かない体を動かし、市民ランナーたちに囲まれて執念で完走した。

「皆さんに凄く希望をいただきました。本当に皆さんに助けられました」

 異名は「トラックの女王」だった。1万メートルは日本選手権6連覇を含む7度優勝。抜群の勝負勘でレースを支配し、3000メートルや5000メートルで日本記録を打ち立てた。記録を0秒03更新した時は「大きいですよー。乳首3つ分くらいですかねぇ」。数々の奔放な発言は度肝を抜き、“福士節”として親しまれた。

「トラックも面白かったですね。わかりやすかったです。練習をやったらやった分だけ出る。スピードの変化、技術を求めるのが面白かった。マラソンに移ったタイミングは勝てなくなったこと。トラックで勝てなくて憤りを感じて、マラソンは楽勝だろうとナメてかかった。そしたらあんな感じになっちゃって(笑)」

「あんな感じになっちゃって」と振り返る衝撃のマラソンデビューは4度転倒

 08年大阪国際で初マラソン。当時は2位以下を大きく引き離したが、30キロを過ぎて大失速した。朦朧として転倒。「やめさせてー!」。沿道から悲痛な叫び声が飛んだ。計4度も地面に這いつくばるフラフラの放心状態。2時間40分54秒の19位だったが、ファンの脳裏に深く刻まれた衝撃のデビューだった。

 16年大会は中盤から独走し、強さを見せつけて優勝。「やっと勝った~!」。笑いながら泣いた。東京五輪を目指していた19年は集団で転倒し、両膝から流血した。20年も25キロ過ぎで2大会連続の途中棄権。沿道のファンに「ごめ~ん!」と叫び、深々と頭を下げた。

 五輪は04年アテネから16年リオまで4大会連続出場。世界選手権は03年パリから5度出場し、13年モスクワはマラソンで銅メダルを獲得した。この日の引退会見では「あまり言いたくないけど」と淀みながら、「マラソンをやってよかったなって思います」と素直になった。

「マラソンのおかげで走る時間が長くなった。道具は靴しかないので自分と会話するしかない。『どうやったらもっと走れるだろう?』と毎日会話したんですよ。それで自分の嫌いなところも含めて全部好きになった。自分と向き合えたのはマラソンのおかげ。散々走りたくないとか思っていたけど、マラソンをやっていてよかった。マラソンは嫌なことだらけなので、言いたくはないですけどね(笑)」

 走るのが楽しい。だから続けたい。できることなら、ずっと勝負の世界で闘っていたい。でも、体が痛い、動かない。「なんかね、走りがへたくそになったの。わかります? 前の自分はよかったのにっていう葛藤があって」。ここ数年は思い通りにいくことの方が珍しかった。

 自分との会話を繰り返して迎えたこの日の引退セレモニー。「もしかしたら走れなくなるのではという不安もあった。ちっこい胸ですけど、痛んでました」と愛嬌たっぷりに笑いを誘った。その直後、突如声の音量を上げた。吐き出した想いは、マイク越しに場内に響き渡った。

「その中でやめたくなかったかなー! 走るの、楽しかったもん!! でも、今日は走れなくなったので終わりにします!」

現役最後の日に見た景色「スポーツは希望を持てるものなんだ」

 自分に嘘をつかない。そんな人間性は走りに滲み出る。速い、強い、面白い、ひたむきで諦めが悪い。弱いところも正直に見せてしまう。だから、みんな好きになる。セレモニーには増田明美、有森裕子、高橋尚子、野口みずき、千葉真子のマラソンオールスターがサプライズで花束贈呈。同じ時代をともに戦った渋井陽子、小崎まりも駆け付けた。

 先輩たちから抱えきれないほどの花束を受け取った本日の主役。「すごい! レジェンド! 写真! 写真!」。日本が誇る名選手たちの真ん中で豪快に笑った。

「心残りはないです。走るのが楽しかったので。思うようにできずに勝負になっていないと思うようになったので、ズルズルになってもしょうがない。一番いいところを知っているので、そこまで行く気力も見えない。もうそこはいいかなって。思っていた引退とは違いましたけどね。やっぱりダメにならないと終われないんでしょうね」

 今後は高校卒業から22年所属したワコールに残り、企画やイベント出演などにも携わる。沿道から、同じコース内からも声援が聞こえてきた現役最後の日。想定外のレースで初めて見えた景色があった。

「今日はランナーを見ていて『希望を持てる』と思った。最後の方は『頑張ってください!』って言われて、スポーツは希望を持てるものなんだと。ランナーが一生懸命に走る姿、一緒に走る空間を見ていたら面白いなって。これが希望というものなんだと。陸上は希望が持てると思う。苦しい中でも楽しかったです。逆に、私からありがとうと思って走れた」

 意図せずとも、今までどれだけの人に「希望」を与えてきたことか。誰よりもファンの心を掴んで離さなかった偉大なランナー。スタンドからは「ありがとう」の声が響いていた。(THE ANSWER編集部・浜田 洋平 / Yohei Hamada)