相手の打球がラインを越えたのを見届けた時、幾度も拳を振り上げたのは、勝利の味を心に刻み込むためだっただろうか?「昨日まで調子がよくなかったが、今日コートに入った瞬間、すべてが変わった。最終セットはキャリアで最高のテニスができた」 全豪オー…

 相手の打球がラインを越えたのを見届けた時、幾度も拳を振り上げたのは、勝利の味を心に刻み込むためだっただろうか?

「昨日まで調子がよくなかったが、今日コートに入った瞬間、すべてが変わった。最終セットはキャリアで最高のテニスができた」

 全豪オープン車いす部門シングルスでは、2年ぶり11度目の頂点。その高みに至る最後の数ゲームを、国枝慎吾は「どうプレーしたか覚えていない」と言った。



2年ぶり11度目の全豪OP優勝を果たした国枝慎吾

 全豪オープンを含むメルボルンでの3大会は、国枝にとってUSオープン以来の公式戦。東京パラリンピック、そして休む間もなく渡米してトロフィーを掲げた昨年の9月は、国枝のキャリアにおいても、もっとも暑い晩夏だったろう。

 ただ、それら疾走のあと、「モチベーションを見つけるのが難しい」状態に陥った。

 悲願の母国での金メダルに、46を数えるグランドスラム単複での優勝----。考えうるほぼすべての栄冠を手にした37歳の今、新たな目標を見つけ、自分を駆り立てるのが困難なのは、あまりに当然な心身の帰結だった。

 昨年末にオーストラリアへと旅立った時は、競技の現場に身を置けば、再び戦う理由が見つかると思ったのかもしれない。ただ、いざコートに向かっても、簡単に心が変わりはしなかった。

「どことなく、目標がないなかでやっている感はある」なかで、それでもシーズン開幕戦では頂点に立ち、続く大会では決勝に進出。その試合中に背中に痛みを覚えたため、大事をとって棄権して迎えた今回の全豪オープンだった。

 心と身体が重ならぬままの試合は、相手以上に自分との戦いだったろう。長く師事するメンタルトレーナーの激励の言葉も「たまに重かったりもする」と、苦笑いとともに明かす。

 それでも単複で決勝に勝ち上がるが、ダブルスでは英国ペアにファイナルセットで競り負けた。

「もう、テニス辞めようかな」

 そんな考えに、ふと襲われる。翌日のシングルス決勝戦の前にも、「もしかしたら最後の試合になるかな」との思いが胸をよぎった。

【練習でもない会心のショット】

 シングルス決勝戦----。国枝とネットを挟むのは、もはや知りすぎるほどに知った顔だ。

 アルフィー・ヒューエット。

 一時期は世界ランキング1位の座も譲った24歳とは、前日のダブルス決勝でも戦い、シングルスではこれまで25度の対戦を重ねてきた。

 戦績は国枝の13勝12敗で、からくもリード。昨年は3連敗を喫し、世代交代の機運も漂いかけたが、9月のUSオープン決勝では国枝が完勝した。これまで数々の好敵手を生んできた国枝だが、現時点でのライバルは顔にあどけなさを残す、この若きベテランだ。

 そのライバルが国枝の本能を刺激したというのは、あまりに単純なものの見方かもしれない。ただ実際に国枝は、モチベーションの低下に苦しむベテランとは思えぬ熱をコート上で発した。

 一打一打に魂を込めるかのように、「うぁー!」「プシェッ!」と声を上げてボールを叩く。届かないと思われるボールにも、「ハッ、ハッ!」と息を切らし、金属音を響かせながらウィールチェアを漕ぐ手に力をこめる。

 第1セットを7−5で奪い、第2セットは3−6で失い、駆け込んだファイナルセット。ハードコートから立ちのぼる熱気が最高潮に達したこの時、国枝のテニスも「キャリア最高」の域に達した。

 ヒューエットが剛腕うならせ放つ強打を、跳ね際で鋭く捉えてウイナーを奪う。

 過去の対戦では、ヒューエットが優位に立つことの多かったバックの打ち合いも、国枝が上回る局面が増えた。特に第6ゲームで放ったダウンザラインへの2本のバックハンドウイナーは、「あんな打ち方は、練習でもしたことがない」と、自身も不思議そうに振り返るほどの会心のショット。

「ゾーンに入っていたんだと思います」

 そう述懐する領域を駆け抜け、国枝は頂点に到達した。

 優勝会見での国枝は、全豪オープンタイトルを取ってなお、どこか矛盾のなかにいるようだった。

「自分自身、この業界で達成感を感じているなかでプレーしなくてはいけない難しさに直面しているところです。なんで勝てたかは難しいですね」

【唯一取れていないタイトル】

 自分でも勝利の理由を見つけられぬ複雑な胸中を隠しもせず、彼は淡々と言葉を続けた。

「でも、試合になると、負けたくない気持ちは沸いてくる。そこじゃないかな......よりよいプレーを見せるんだという、テニスを始めた時の原点にいかに立ち返るか。それしかないのでは」

 手にしていないタイトルということで言えば、まだウインブルドンのシングルスが残っている。あるいはヒューエットのようなライバルや、15歳にして世界9位につける小田凱人(ときと)ら若手の台頭も、国枝の自己研鑽をうながす砥石になるのかもしれない。

「どの選手よりクリーンにショットを打つ選手ではあるので、マネできるところはマネしたいし、追いつきたいと思ってやっている」

 これは、ヒューエットへの評価。

 前哨戦で対戦し、熱戦を演じた小田に対しては、次のように語っている。

「日本の車いすテニス界にとって、本当に明るい材料。僕もそんなに長くやらないと思うので、いつでもバトンタッチできるという思いがあります。全部のショットが一級品。いつトップに来てもおかしくない状態だと思います」

 ちなみにサッカー少年だった小田は、骨肉腫を患いリハビリに打ち込んでいた時、国枝のプレーをテレビで見て車いすテニスを志したという。

 もっとも、国枝自身は「誰かが出てきたところで、自分自身のモチベーションを上げられるというのはない」という。

 ならば、何をモチベーションに、どこを目指すのだろうか? 自らに問いかけるように、彼はやや視線を落としていった。

「自分自身、どういうテニスをするのか。どう成長するかしかないことは、わかっているので......」

 その言葉の先に続く未来を、孤高の王者はここから模索していくのだろう。